ドキュメント上野介
 ~対馬外交~
 


 金―ドル
小栗一行が、アメリカ船ポーハタン号から品川を出航したのが安政7年(1860)の正月、太平洋を横断してパナマ地峡から大西洋に出て軍艦ローノック号に乗り換え、ワシントン到着は閏3月。批准書交換の大役を果たし、帰路はアフリカ経由。香港に寄港したとき、長崎オランダ商館長のドンケル・クルチウスから「井伊大老が病気で死んだ」と聞かされた。品川で、病気ではなく攘夷派の刃に倒れたのが真相だとわかる。当時は、世をあげて攘夷熱に浮かされており、アメリカの見聞体験などを口に出そうものなら命が危なかった。
それでも、小栗のアメリカでの見聞の効果は十分にあった。その一つは、金―ドルのこと。江戸の神田の三河町に、紀伊国屋という油商が店を出していた。この店の婿養子になった利左衛門はもともと小栗家の中間だった。利発者であり、愚痴を言わずに働くのが紀伊国屋の目に留まって養子になった。小栗家のある江戸・駿河台と三河町は近いので、あれこれと付き合いがあり、李左衛門は小栗家の若様の家計のやりくりを手伝っていた。
アメリカへ行くと決まって、多分の餞別が贈られたはずだ。小栗は利左衛門に「多額の選別の御返しには何が良いかな」と言ったであろう。利左衛門はきっと、「アメリカの金、ドルの事を何でもよいので調べていただきたい」と願ったようである。
ポーハタン号のアメリカ人船員は、何かと口実を付けては日本の役人に近づき、露骨な態度でドル紙幣と日本の銀貨の交換を持ちかける。銀の含有量の多い日本の銀貨は、貨幣というよりは上質で安価で買える銀製品として投機の対象になっていた。
フィラデルフィアの造幣局を見学したときに挨拶に出たのは、商人ではなく政府の高官だった。高官が政府の事業として貨幣をつくっている事実を知った小栗は、相当に興奮したであろう。帰国したら誰彼に知らせてともに考えることにしよう、などと思ったはずだが、帰国してみると、とてもそんなことを言える雰囲気ではなかった。
なお、小栗家の若様と親しい利左衛門は、のちに小栗家の世話で三井家の使用人となって三井財閥の基礎を築くことになる。
 対ロシア外交
帰国して間もなく、小栗は目付から外国奉行に転任し、ロシア軍艦ポサドニック号の問題を解決するため、対馬に赴く。ポサドニック号は「船体修理」を名目に対馬の芋崎浦に投錨し、長期間船員を滞在させる動きを見せた。文久元年(1861)2月の事である。
日本との関係をめぐって、ロシアはイギリスと対抗している。ポサドニック号が対馬に軍事基地を築き、イギリスの優位に立とうとしているのは明らかである。住民との間にトラブルが起こり、長崎奉行から報告があって小栗が対馬へ出張した。
艦長ビリレフは、長期の滞在を許してくれる藩主の宗義和にお礼を言いたい、会わせてほしいと小栗に懇願する。宗義和は、「会えば家臣に合わせる顔がなくなる。会わずに済むように取り計らってほしい」と依頼している。
小栗はビリレフに、「いずれ日を定めて会見できるように取り計らう」とだけ通告し、宗義和には「臣下が動揺しないよう配慮してほしい」という趣旨の事を伝えて江戸にもどる。
ポサドニック号は8月に退去するのだが、江戸にもどった小栗が外国奉行として何らかの手を打ったのかどうかははっきりしない。おそらく、小栗としては、事は日本とロシアの外交問題であり、対馬一藩で解決できるものではないため、江戸にもどって、大局的な見地から検討し解決しようと試みたのではなかろうか。
小栗はこのとき、対馬を幕府領にして、宗家には別の地を知行させるべしとの案を出し、幕閣要路に内々に提示したようだ。幕府領になればロシアとの直接の交渉が可能になり、それは幕府の対外的な権威を高めこそすれ、低下させることにはならない。だが、小栗の対馬収公案は要路に容れられず、非難を浴びた小栗の外国奉行職辞職だけが実現してしまった。
 小栗の真の狙い
辞職に追い込まれた小栗だが、反省しきりなどでは到底なく、うまくいかなければ辞任すればよい、命までは奪われぬであろう、くらいにしか思っていなかったのではないか?
辞職することで非難、攻撃をやり過ごし、それと引き換えに、自らが案出した政策の正しさ、あるいは手応えといったものを収穫とする。
ロシア軍艦対馬占領未遂事件の手応えは何かというと、大名という零細な存在に知行地の支配権を委ねていることの危険性、愚かしさということが明らかになった点である。ロシアなどツアーリー(皇帝)という唯一絶対の権力のもとで行動しているロシアの官僚や軍人には理解できないことだが、対馬のような大名知行地が外国の軍隊によって占領されそうな危機に陥ったとき、幕府首脳が真っ先に案じるのは、「これは対馬にだけ固有な問題として、対馬の宗家が単独で処理すべきなのか、それとも幕府が乗り出して解決すべき問題なのか」、つまり私ー大名と、公―幕府のどちらに分類すべきなのかという、単純であるだけに意外に頭の痛い選別である。
ロシア軍艦の問題は対馬だけの事で幕府には関係が無い、と放っておくのも可能であり、当面は痛くも痒くもない。しかし、この策を進めてゆくと、いずれは対馬には国際港が出現し、ロシアばかりか、無数の外国との国交通商が始まる事態を直視させられる。まずは対馬国際港が誕生して、その次に対馬独立という順序である。
逆に、どんなことであれ、対馬の事は幕府が全責任を負い、かつ全権を行使し、対馬には任せないと踏み出す手もある。金も手間もかかるが、徳川が主である対馬の宗家は従である主従関係を維持するにはやむを得ない。
小栗は後者の見解を堅持することにした。「私」お「公」の対立が生じたら、迷うことなく「私」を捨てて「公」を拡大する。「公」の拡大の行き着く先が徳川絶対主義なのだ。すべての「私」を否定して「公」に吸収し、日本列島の全てを徳川の支配のもとに置く。
結局幕府首脳には理解されず、辞職した。提案して却下され辞職する、小栗の生涯はこの繰り返しであったが、そのたびに役が重くなるのは皮肉であった。
対馬事件で得た最大の収穫、それは「私」のすべてを「公」に吸収して、徳川の唯一絶対、永久の政権をつくるという展望だ。




TOPページへ BACKします