ドキュメント上野介 ~目付となる~ |
この時代は、開国に向かっていた。その決断をしたのが幕府ならば、その決断に従って一歩一歩、少しずつ駒を進めていくのが勤仕の根本。厳しい選択とか、決断と言った心境とは無縁である。開国の是非などということで頭を痛めることなど、微禄の上野介には全くかかわりがない。ましてや開国が決まった時点で上野介は小栗家の当主ではない。家禄の2700石は特別高くはないが低くもない、比較的ゆとりある身分だった。 安政という年号、その名に反して危機に次ぐ危機と言った世相を連想させる。世論は開国か攘夷かに二分され、旗幟を鮮明にせねば卑怯者か愚者扱いされ、或は一方の立場を表明すると命さえ狙われかねない、と言った解釈が常識である。 だがこれは、「徳川の世界」と「非・徳川の世界」との相違、差異を無視した見方である。この時代、日本のすべてを一体として律する価値観、法体系と言ったものは存在しなかった。徳川が大半の土地を握って君臨し、非・徳川の大名は限定された分権を維持することに汲々としていた。「徳川の世界」に介入できない「非・徳川」の大名の前に、開国か攘夷かの選択などはありえない。徳川の決断に従うのが、鉄槌を下されるのを覚悟のうえで不承知を表明するのか、選択と言えばこれだけであった。 小栗上野介忠順にこういうことは無縁である。小栗家の当主の椅子が回ってきたら、それに座り、徳川の主にお仕えする。その日が来るのを待っていた。自ら乗り込んでゆこうと逸る威勢の良いものでもなかったようである。
目付と言っても、個人の旗本の日常を監視するわけではない。命じられた業務を旗本が遂行するにあたって、怠慢や不正がないかどうか、業務遂行の現場に立ち会って監視し、報告する。 目付となった小栗が拝命したのは「アメリカ合衆国に参れ」という命令だった。 日米修好通商条約は安政5年6月に調印されたが、批准書の交換は、アメリカで行う約束になっている。批准書をアメリカに運び、アメリカ政府の然るべき役人との間で先方の批准書と交換する。交換使節に同行してアメリカにわたり、交換の業務を監察する役が新任目付の小栗に回ってきた。 外国奉行の役が新設されたのは、日米条約調印の4か月後である。開明的な傾向の数名の旗本が外国奉行に任じられ、開国のための実務を処理していったが、彼らのすべてが大老井伊直弼に信任されたわけではない。次期将軍として水戸斉昭の子・一橋慶喜を推して井伊の怒りを買い、奉行を罷免されたものもいた。 将軍候補について意見を言うのは外国奉行の職掌ではないが、そういう職制を無視し、失跡や処分を恐れずに慶喜を推してはばからないところに、彼らの面目があった。
「水野忠徳、岩瀬忠震、永井尚志、堀利煕などが外国奉行に任じられた時には、外国奉行には幕府の俊才が集まり、「良吏の淵叢というべきだ」とさえ評されたものだが、次期将軍の問題を巡って岩瀬と永井が井伊大老に罷免され、他の才覚、経験のある重鎮が次々に退けられ、安政6年の末にはガンコ子弟か俗吏庸才のあつまりになりさがってしまった」俊才が去り、残骸寸前の外国奉行が批准書交換の大プロジェクトを行うことになる。 ここまで条約交渉を担当してきたのは老中の堀田正睦だった。批准書交換については堀田は大きな期待をかけていた。重要人物をアメリカに送るべきだと考え、ひそかに人材の選抜を行っていた。堀田は水戸の斉昭を説得して、一橋慶喜を担ぎ出して使節とし、自分も一緒にアメリカに乗り込むことまで構想していたようだ。 批准使節の選考が始まったとき、外国奉行に残っていたのは水野忠徳だ。堀田も「水野ならば」と考えたようだが、横浜で起こったロシア海軍士官の殺害事件の責任を取らされ、水野は解任されてしまう。ほかに然るべき人材もいないまま、外国奉行の新見正興と村垣範正が交換使節、小栗が目付に任命された。 新見と村垣については福地は「新見は温厚だが才はあまりない。村垣は俗吏である」とし、小栗については「活発にして機敏の才に富み、三人の中でこの人だけは別格だ。のちに小栗が幕末の難局に当たってよくこれに堪えたのも、アメリカに行ってその見聞を広めたことの効果かもしれない」と絶賛している。 |