甲陽軍鑑
 ~喧嘩両成敗~
 


 喧嘩両成敗
「甲陽軍鑑」の「品一」は、信玄が定めた「甲州法度之次第」の全文である。戦国大名の法を「分国法」というが、この分国法の特徴は、喧嘩両成敗が規定されていることである。
喧嘩は、理由の如何を問わず成敗成敗すべきである。但し、喧嘩を仕掛けられても我慢した者は、罪科に処してはならない。贔屓偏バ(変換不可)のため味方した者は、理非を論ぜず同罪である。(後略)
喧嘩を仕掛けられても我慢した者は、罪科に処せられないという。しかし、喧嘩を仕掛けられて我慢するのは、武士として正しい態度とは思えないという家臣たちの批判があった。そのうちの一人内藤修理昌秀は、それを一理ある事だとしながらも、「侮辱されても、おめおめと我慢するような者は、さほど御用に立たないだろう」と言い、それは「信玄公の大きな御損」だとしている。
何故なら、法を重んじて、何事も無事にと考えるようになれば、諸侍が男道のきっかけをはずし、皆が侮辱を我慢する臆病者になってしまうからである。逆に、武士道を外すまいとして武士の意地を立てようとすると、法度に背くことになり、御成敗されるか、国を追われることになる。そうなると、良い侍を一人失うことになり、信玄公の軍勢は皆弱くなる、という。
 法より武士の意地が大切?
戦いを本分とする武士は、たとえ喧嘩になるにしても、武士道を立てなくてはならないことがある、というのである。武士の意地を、主君の法よりも上に置こうとする自立した戦国武士の心意気を見ることができる。
内藤は、その実例として、桶狭間の戦いの時の徳川家康の態度をあげる。家康はこの時、尾張の大高城に入っていた。若干19歳だった家康は、今川義元が討ち死にし、今川勢が総崩れになったあとも、しばらく城を持ちこたえた。このため家康は、今川家の人々に感心されたが、それも家康が「男道」のきっかけをはずさなかったためだった。内藤は、次のように述べる。
いやしくも、それがし内藤修理においては、子供に男道のきっかけをはずしても我慢しろというようなことは、絶対に命じません。
これが、まともな武士の偽らざる感情だった。そのため、これ以後武士は、公的な法である喧嘩両成敗と、個々人の規範である武士道との間で、自分の行動に悩むことになる。侮辱を加えられた武士は、処罰覚悟で喧嘩をする必要が出てきたからである。江戸時代の武士道を巡る模索は、法と武士道の間にある二律背反ともいうべき倫理を、いかにして両立させるかを考えることから始まったのである。

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