甲相駿三国同盟 ~河東一乱~ |
ちなみに、この争乱以前においては、今川氏も北条氏も河東という表現は使っておらず、文章上では、次の天文6年(1537)と推定される3月7日付の北条氏綱書状が初見である。 陣中の御祈念の巻数贈り給はり候。目出たく大慶この事に候。当口河東の悉く本意に候。何様罷り帰り候て、子細申し談ずべく候。大道寺蔵人佐、虎口に候間、先ず早々申し候。恐々謹言 三月七日 謹上 相承院 北条氏綱は、2月21日付で河東地域に一斉に禁制を出して軍事行動の近いことを知らせており、2月26日、氏綱自ら兵を率いて河東地域に侵攻を開始した。このあと、「河東一乱」は第三次まで断続的に続くことになるが、その第一次「河東一乱」のはじまりである。
一方、今川義元と同盟を結んだばかりの武田信虎は、北条氏綱を牽制すべく須走口まで出兵してきたが、北条軍を押し戻すことはできず、結局、河東地域は北条氏によって占領される形となり、第一次「河東一乱」は自然休戦となっていった。 家督を継いだばかりの義元にとって、領国の一部を切り取られ、敵に占領されることは恥辱であった。義元の敗因は、前年の花蔵の乱の余波で、今川軍全体のまとまりがまだなかったことであろう。そしてもう一つは、北条氏綱の巧みな外交戦略に負けたという側面もある。
具体的には、遠江の見付端城の堀越氏延と手を結んだことである。この遠江の堀越氏というのは、今川一門の、遠江今川氏の事で、今川了俊の後裔であった。氏綱はこの堀越氏延と手を結んでいる。 またそれだけではなく、遠江の有力な国人領主である井伊氏や、三河の奥平氏あたりまで巻き込もうとしていたことが知られる。「松平奥平家古文書写」に、つぎのような北条氏綱書状写があり。 遠州本意の上、彼の国において五百貫文の地、進らせ置くべく候。しからば、井伊と御談合有り、早々御行簡要に候。巨細、使者申さるべく候。恐々謹言 三月廿九日 奥平七郎殿 こうした氏綱の「遠交近攻同盟」により、義元は遠江の敵とも戦わなければならず、北条氏綱だけに対する戦略をとるというわけにはいかず、結局は北条氏の河東地域への進出を許すことになってしまったわけである。 |