甲相駿三国同盟 ~今川と武田との婚姻~ |
ところが、家督を継いだばかりの義元は、恩になった氏綱の神経を逆なでする行為に出た。何と、敵対者である武田信虎と手を結んでしまったのである。 義元とすれば、「氏綱との間には相駿同盟が結ばれているので、信虎との間にも甲相同盟を結べば安泰であろう」と考えたのかもしれない。のちの甲相駿三国同盟と同じような形を構想した可能性はある。しかし、この義元の行為は氏綱を怒らせる結果となった。その怒りが後年「河東の乱」という形で現れるわけである。
そうなると、考えられるのは雪斎である。こののち、武田氏との交渉にたびたび登場する雪斎が、信虎と戦うことの否を義元に説き、納得させたものと思われる。 義元にしてみれば、姉妹の1人が北条氏康に嫁いでいるし、父氏親が、北条氏初代の早雲の後押しによって家督を継いだ経緯も承知していたはずで、北条氏を敵に回す事は考えられなかった。したがって、はじめから北条氏を敵とし、武田氏と手を結ぶという外交路線の転換を考えたわけではなく、北条氏とも手を結び、武田氏とも手を結ぼうと考えたとみることはできる。ただ、こののち義元のこの行為に怒った北条氏綱が今川領に攻め込んでいることから判断すると、武田氏と結ぶことを氏綱に相談していなかったことがわかる。
この結婚によって甲駿同盟が開始したわけであるが、実質的にはその前年に始まっていた可能性もある。それは、前年天文5年7月、武田信玄が転法輪三条公頼の娘と結婚しているが、それを斡旋したのが義元だったとする説があるからである。京都の公家たちとの人脈を持つ義元ならできないことではない。 それにしても、祖父義忠の室は京都の伊勢氏につながる伊勢盛定の娘であり、父氏親の室は中御門宜胤の娘で、いずれも京都ゆかりの女性である。京都指向の強かった義元が、自らは京都の女性ではなく、隣国、しかも少し前まではお互い敵国として戦いあっていた間柄の甲斐武田氏から室を迎えるには、それなりの決意があったものと思われる。義元としては領国拡大、特に父氏親が試み、果たすことができなかった三河への進攻のためには、背後を固めておくことが不可欠だったのだろう。 義元の正室となった信玄の姉は、翌天文7年、義元の嫡男氏真を生んでいる。名は伝わらない。天文19年(1550)6月2日に没し、法号は定恵院殿南室妙康大禅定尼といった。 |