黄巾の乱と理想 ~漢への異議申し立て~ |
城陽景王信仰とは、前漢の高祖劉邦の呂皇后一族から漢を守った劉章への信仰で、前漢を奪った王莽に対する赤眉の乱の宗教的な背景となった。黄巾は、その宗教内容ではなく、漢に関わる祭祀を破壊したことを道を知っているとしたのである。そして黄巾は、五行思想をも踏まえたうえで、漢の滅亡と黄家の興隆を主張している。 黄巾は自らの道を「中黄太乙」としている。太乙とは、太一神のことで、前漢の武帝期に黄老思想(黄帝と老子を尊崇する思想)を背景に最高神として祭祀を受けていた神である。儒教が正当化する「聖漢」への異議申し立てを行う際、儒教が国教とされる以前の武帝期において、漢の支配理念であった黄老思想にその拠り所を求めることは、自然な発想である。さらに五行相生説において、火徳の漢を継ぐべき土徳のシンボルカラーが「黄」であったことは、黄老思想の復権に拍車をかけよう。「中黄太乙の道」とは、黄老思想に依拠した新たなる天(最高神)である中黄太乙に従う生き方を示すのである。 「蒼天已死す、黄天当に立つべし」とは、「儒教国家」の天である皇天上帝はすでに死んでおり、太平道の天である中黄太乙が代わって立つことを宣言したものと理解できる。
第一に、思想内容としての体制儒教の成立。後漢の春秋公羊学派は、孔子は漢の成立を予見・祝福して、漢の支配体制の規範となる「春秋」を著したと主張する。後漢を孔子に守られた「聖漢」とする体制儒教の経義は、章帝期の白虎観会議で確立した。 第二に、制度的な儒教一尊体制の確立。後漢の太学(国立大学)には、今文学(漢代の文学)の五経(易・書・詩・礼・春秋)ごとに博士が置かれ、今文学一尊体制が確立されていた。 第三に、儒教の官僚層への浸透。後漢の政治の中枢になった太傅(皇帝の傅役・非常設の最高位)・三公(大尉・司徒・司空)・禄尚書事(実務を行う尚書台を管掌)・大将軍(武官の最高位)における儒教の浸透比率は、初期(光武帝~章帝期)が77%、中期(和帝~党錮の禁)が76%、後期(党錮の禁~黄巾の乱)が83%、末期(黄巾の乱~滅亡)が51%である。前漢の武帝期が2%で、元帝期が27%である事から、後漢における浸透率の高さがわかる。 第四に、儒教的支配の成立。後漢では「尚書」尭典の「五経在寛」を典拠とする寛治(豪族の影響力を利用する緩やかな政治)が行われていた。 このように、後漢は「儒教国家」としての体制が確立された時代である。このような後漢「儒教国家」を儒教ごと打倒するスローガンを黄巾は掲げたのである。 |