黄巾の乱と理想 ~黄巾族蜂起~ |
当初、黄巾族は光和7年(甲子)の3月甲子(17日)、魏郡鄴県で挙兵することを予定していた。古来、甲子(きのえ)は、十千十二支の組み合わせで最初となるため、すべてが革まる革命の年とされていた。そこで、張角は「蒼天已に死す、黄天当に立つべし。歳は甲子に在り、天下大吉なり」というスローガンを信者に唱えさせてゆく。 ところが恐れを抱いた弟子の一人唐周が裏切り、計画は事前に暴露された。首都洛陽に潜入していた幹部の馬元義は車裂きの刑に処され、千人余りの関係者が誅殺された。張角はやむなく予定を早めて、各地の「方」に蜂起を命じるとともに、2月に冀州魏郡鄴県で挙兵したのである。 後漢の霊帝は、3月河南尹(首都圏長官)の何進を大将軍として洛陽の守備に当たらせる一方で、北中郎将(将軍より下位の武官)の盧植に、北軍五校の兵(精鋭部隊)と全国より召集した兵を率いて、冀州の黄巾を討伐させた。その際、豫洲の潁川・汝南の両郡で蜂起していた黄巾には、左中郎将の皇甫嵩と右中郎将の朱儁を派遣した。だが、両者の軍は郡兵と募兵により編成されていたため劣勢で、5月には潁川郡長者県で黄巾に包囲される。それでも皇甫嵩の奇策により、漸く包囲を破ると、6月には豫洲の黄巾をほぼ平定した。
しかし、主力は壊滅したものの、黄巾の蜂起は止まらなかった。中平2年(185)8月より、青州と徐州で黄巾の反乱が勃発する。徐州牧(州の長官)の陶謙はこれを一時征伐したが、中平5年(188)になると、青州・徐州において黄巾の反乱は再開される。黄巾は強力で、西方の冀州を拠点とした黒山の賊とも連携して活動を続け、初平2年(191)には、青州の黄巾が30万を超える大軍となった。黄巾は南下したが、泰山太守の応ショウに撃破され、さらに公孫讃に大敗した。それでも体勢を立て直した青州黄巾は、大挙して兗州東平郡に侵入して兗州牧を殺害し、兗州に拠点を求める曹操と激しく戦うことになるのである。 このほか、中平4年には荊州に長沙の賊、5年には幷州には白波の賊、豫洲には葛ハの黄巾など、建安年間まで黄巾の余波は続いていく。黄巾の主力が壊滅したにもかかわらず、黄巾の残党やそのほかの賊が蜂起し続けたのは、後漢の国家機能が完全に麻痺していたためである。それは、この間隙をぬって董卓をはじめとする群雄が割拠し、相互に抗争を展開したことによる
「蒼」と「黄」という点の色は、アジアの宇宙観の根底に置かれている陰陽五行思想と関わりがある。ただし、黄巾はそれだけでは説明できない。 陰陽五行思想において、万物は、陰(地・月・女等)と陽(天・日・男等)との交わりによって生まれ、木・火・土・金・水という五つの要素(五行)から成り立つ。万物を構成する五行は、木を燃やすと火になるように、木(蒼)→火(赤)→土(黄)→金(白)→水(黒)→木・・・・・と互いに生まれてゆく。後漢の宇宙観を支えていた五行相生説では、赤をシンボルカラーとする火徳の後漢に代わるものは、土徳の国家で黄色をシンボルカラーとすべきである。「黄天当に立つべし」という主張は、五行相生説に適合する。しかし「蒼天已死す」の「蒼」は、五行では木徳となり、五行相生説では火徳の漢の終焉を示すことにはならない。この問題を解く鍵は、兗州に侵入して曹操と戦った青州黄巾が、曹操に対して出した降伏勧告書にある。(続く) |