1 黄海海戦
 ~旅順艦隊の選択~
 


 苦悩するロシア陣営 
明治37年(1904)7月、旅順を根拠地とするロシア海軍太平洋艦隊は、重大な岐路に立たされていた。出港して危険を冒してウラジオストックへ脱出するか、旅順にとどまり座して死を待つかの選択を迫られていたのである。
日露開戦時、ロシア海軍は戦艦六隻を主力とするロシア太平洋艦隊を、要塞で防御された根拠地、旅順港に在泊させていた。このロシア太平洋艦隊は旅順を根拠地としたことから旅順艦隊とも呼ばれる。開戦以後、旅順艦隊は日本海軍の度重なる攻撃を受け、戦艦一隻と艦隊司令長官マカロフ提督を失う痛手を被ったものの、依然として艦隊は健在であった。
ロシア海軍は、日本海軍によって旅順港を封鎖されることは免れ得なかったが、これはさしたる問題ではなかった。というのは、ロシア海軍はバルト海所在のバルチック艦隊が第二太平洋艦隊の名称で、援軍として派遣することを戦略の基礎としており、旅順のロシア太平洋艦隊は、バルチック艦隊来援までその勢力を保全させることを予定していたからである。旅順艦隊としては、封鎖されても戦力さえ温存できれば戦略的には問題はなかった。
ところがその前提に狂いが生じた。海上から旅順艦隊を撃滅できないとみた日本海軍は、陸軍に要請して旅順要塞の攻囲戦に着手したのである。もともと旅順港の安全は要塞により担保されていたが、陸側からの攻撃で要塞が陥落することになれば、艦隊もまた運命を共にすることになる。旅順艦隊が座して死を待つというのはこのことである。その運命を避けるためには、太平洋方面のもう一つのロシアの軍港・ウラジオストックまで脱出を試みるしかない。
 脱出不可能?
旅順艦隊首脳部の大勢は、旅順にとどまることで一致していた。回航の危険を冒すより、旅順にとどまり要塞防御に協力したほうが戦略的に寄与できると彼らは主張していた。
だが、ロシア海軍上層部は旅順艦隊のウラジオストック回航を希望した。そのため旅順艦隊の態度は煮え切らないものとなった。6月5日、旅順艦隊臨時司令長官ウィトゲフト提督は、司令や艦長といった艦隊首脳を集めた会議を開き、回航の可否を協議した。ここで一度は回航と決したが、それにもかかわらず7日にも会議を開いて、旅順が攻囲される状況下、艦隊は全滅を避けるべく脱出するか否かを再度協議している。ウィトゲフト自身は出動を望んでおらず、会議の結論は見えていたと言えなくもない。
ところが、極東太守で艦隊総指揮官のアレクセーエフ提督からの旅順脱出命令が届いた。ウィトゲフトはやむなく、6月23日に出港を試みたが、港口を出たとたん封鎖中の日本艦隊に発見され、迎撃に出た連合艦隊主力が姿を現すと、ウィトゲフトは脱出を断念して旅順へと舞い戻った。この反転はアレクセーエフ提督を激怒させ、旅順艦隊のウラジオストック回航を望むアレクセーエフと、脱出は不可能とするウィトゲフトとの間で電文による激しい応酬が繰り返された。
旅順艦隊首脳陣のほとんどはウラジオストック回航に悲観的だった。彼らの脳内には不安材料が山積みとなっていた。まず、戦争前の図上演習でロシア艦隊は、日本艦隊によって大打撃を被っていた。この図上演習にはウィトゲフトも参加している。
また、1904年7月の時点で旅順艦隊は、6インチ砲以下の各種の備砲を陸上防衛のため要塞守備隊に貸し出しており、戦力を低下させていた。「セヴァストポリ」に至っては、主砲である30センチ砲一門も陸上守備に貸し出していたほどだ。とくに対水雷艇用の軽砲多数を外していたことは、旅順艦隊首脳部の大きな不安要素だった。それというのも、旅順からウラジオストックまでは当時の船ではとても一日で到達できる距離ではなく、必然的に夜間航行をしなければならない。そこを水雷艇や駆逐艦に襲撃される恐れがあった。この場合、頼りになるのが対水雷艇・駆逐艦用の軽砲なのだ。
また、ロシア艦隊の兵員は開戦直前に集めたため練度が低く、開戦後は日本海軍の封鎖を受けて港内に逼塞したためほとんど訓練を行うことができず、練度は低いままであった。
さらに、三度の日本海軍の閉塞作業の影響で、ただでさえ狭い港口がさらに狭まり、司令部が検討したところ艦隊の全部が港外に出るまで三時間もかかる状況となっていた。しかも、その狭い港口には日本海軍が機雷を敷設していた。このため戦艦「ペトロパブロフスク」は触雷して沈没し、6月の出港時には帰りがけに「セヴァストポリ」が触雷していたのである。このため出港前の掃海作業が欠かせなくなっていた。
 絶望的な出港作戦
こうした事前の掃海作業と、三時間もかかる出港作業のため、隠密裏に出港する望みはなくなっていた。事実、6月23日には日本海軍は旅順艦隊の出港を探知して待ち受けていた。
優勢な日本艦隊との交戦は避けられず、夜間の駆逐艦や水雷艇の襲撃も避けがたいことから、旅順艦隊首脳部は出港すれば全滅を招くと判断していたのである。また、ウィトゲフトに実戦経験がなかったことも、部下の艦長たちの悲観論を増幅させていたことも考えられる。しかも、ウラジオストックにたどり着いたところで、旅順艦隊の行動を支えるに足る石炭の備蓄もなかった。
7月13日、ウィトゲフトは改めてアレクセーエフ提督に「艦隊の出動は不可能なり」と打電した。ウィトゲフトは旅順に留まり、要塞防御戦を全力で支援することを望んだ。
このウィトゲフトの電文に対しアレクセーエフは「予は各司令官の意見に賛同する能わず」で始まる返電を送って血路を開いてウラジオストックへ回航することを命じた。さらに続けて、艦隊回航策はロシア皇帝の御嘉納のあったこと、開戦劈頭に優勢な日本艦隊と戦って沈んだ巡洋艦「ワリヤーグ」の武功に倣うべきであり、要塞陥落によって自滅し「聖アンドレーエフ旗」を汚し、ロシア海軍に汚点を残して威信を失墜させるようなことがあれば、法律上の重大責任は免れないとしてウィトゲフトを脅し続けた。
アレクセーエフは、ロシア満州軍が旅順要塞を救援できない以上、バルチック艦隊来航まで旅順が持ちこたえることはできないと観ていたのである。バルチック艦隊の到着は早くて12月、それまで要塞は持ちこたえそうにないと判断していたのだ。
皇帝の名が出された以上、いかんともしがたい。ウィトゲフトは8月8日、艦隊首脳を集め、ウラジオストックへ回航することを告げた。この時の旅順艦隊の心境は、太平洋戦争末期の連合艦隊の戦艦大和の特攻に似た悲壮なものが感じられる。勝算乏しい艦隊に対して皇帝の権威、海軍の名誉を持ち出して出撃を促したのは、絶望的な状態に陥った時に出さざるを得ない軍人に通じる精神文化があるのかもしれない。




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