石田・毛利連合政権の成立
 ~自らを「公儀」と称する~
 


 家康は「徒党の大将」に過ぎない
石田三成が7月晦日付で真田昌幸に出した書状では、前田利長のことは「大儀」に対して「毛頭無疎意覚悟二候」と述べている。この書状では、細川忠興を改易した理由として、「彼二=家康」を「徒党」の「大将」とし、国を乱す雑意=悪計をたくらむ張本人である、と記しているので、石田・毛利連合政権が公儀であるのに対して、家康は単に徒党の大将に過ぎない、としている点は重要である。
毛利輝元・宇喜多秀家が連署して8月朔日付で島津忠恒に出した連署状では、国中の人数を召し連れて上洛するよう要請し、玉薬・兵粮は「公儀」から命じられる、としている。毛利輝元・宇喜多秀家の二大老が島津氏に対して出兵要請をしていたうえで、「公儀」から玉薬・兵粮を与える、としていることは、石田・毛利連合政権が公儀であると述べていることになる。

 石田・毛利連合政権こそが公儀である
石田三成が8月5日付で真田昌幸・同信之・同信繁に出した書状では、「此節其方之儀、公儀有御奉公、国数可有御拝領儀」をして国を拝領すべきである、という意味であり、石田・毛利連合政権こそが公儀であると述べていることになる。
石田三成が8月10日付で真田昌幸・同信繁に出した書状では、「折角早々会津へ使者を被立、公儀無御如在、拙者と被仰談候由、可被仰合候」としている。これは、真田昌幸・同信繁から会津の上杉景勝のところへ使者を出して、「公儀」のことについて景勝が三成と油断なく協議するように伝えてほしい述べたものである。このことからすると、三成は8月10日の時点で公儀を掌握していて、その公儀に関する諸事について、五大老の一人である上杉景勝と協議したいと表明していることがわかる。この点は、石田・毛利連合政権が公儀であり、上杉景勝も公儀を構成するメンバーに加える方向で三成が考えていたことを示している。
このように、石田・毛利連合政権サイドが発給した書状において、「公儀」という文言を使用していることは重要な意味を持っている。




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