畿内の火薬庫大和 ~摂関家と興福寺~ |
興福寺とはどういう寺院なのか。前身は藤原氏の祖である藤原鎌足が天智天皇8年(669)に創建した山階寺である。その後、鎌足の息子不比等が藤原京への遷都に伴い同寺を厩坂に移した。更に和銅3年(710)平城京遷都に際し、奈良の春日の地に堂宇を建立し、鎌足が作らせた釈迦三尊堂を厩坂寺から移し、国家の福を興すという意味を込めて興福寺と名付けた。 興福寺は以後、藤原氏の氏寺として栄えるが、その一方で養老4年(720)には官寺に列せられ、維摩会など国家的法会が行われた。したがって興福寺は、檀越である藤原氏と朝廷の双方から影響を受けたのである。
このように摂関家が興福寺との関係を強化していったのは、院政の定着による摂関政治の権威低下に危機感を抱いていたからである。実際、この時期から、従来は藤原氏の氏長者が行っていた興福寺人事に院=治天が介入するようになり、これに反発する強訴が頻発した。
摂関家と密着した結果として、興福寺は摂関家の内部抗争に巻き込まれることになった。藤原忠通・頼長の兄弟が対立した保元元年(1156)の保元の乱では、信実率いる興福寺は氏長者である頼長側に立つが、合戦には間に合わなかった。頼長の敗死後、信実らは所領を没収されている。 治承3年(1179)、平清盛はクーデターを敢行し、後白河院を幽閉した。この際、反平氏と目されていた氏長者の松殿基房が流罪となった。興福寺大衆はこれに激昂し、以後、一貫して反平氏の立場をとった。翌4年には清盛の五男平重衡が南都(奈良)焼き討ちを行い、興福寺・東大寺はほぼ全焼した。 |