1・幼少のころ 生誕 |
田上騂之助 |
緒方洪庵は、文化7年(1810)7月14日、備中国足守という陣屋町に生まれた。両親は、足守藩士佐伯瀬左衛門惟因と妻きょう。一人の姉、二人の兄の後に生まれた末子である。洪庵は佐伯家に生まれたが、幼名は「田上騂之助」と名付けられた。 「騂之助」の名づけの理由は、「論語」の「雍也篇」に「犂牛の子、騂(あか)くして且つ角ならば、用うること勿からんと欲すと雖も、山川其れこれを舎てんや」とあるのを念頭に置いて命名したらしい。我が子への将来への願望を込めた父の思いやりと思われる。 洪庵は成長すると、文政8年(1825)に16歳で元服し、「田上騂之助惟彰」と名乗った。佐伯家では、代々「惟」の名をつけているのを踏襲したのである。翌文政9年、大坂で医学修行中に「緒方」姓を名乗り、名を「三平」、次いで「剛平」、さらに「判平」と改めた。和歌や短冊・書などには、先の「彰」の一字を取って名とし、その字画を省略して「章」の名を用いている。その後、天保7年27歳、長崎修行に行くときから「緒方洪庵」と改めている。 洪庵は字を「公裁」といい、「適適斎」また「華陰」と号した。書に用いた落款には、「公裁」「緒方章印」「浪華橋陰草医生」という印文があり、この三つの印象が東京の緒方家に残っている。 |