緒方洪庵とは  


日本における幕末期、およそ200年間に及ぶ泰平の眠りについていたこの時代、西洋列強がアジア諸国に押し寄せてきており、日本もその外圧の影響を受けることになった。それまで絶対的な力を持っていた徳川幕藩体制もいよいよ行き詰り始めた。国内に日本の近代化の動きが生じ、やがて明治維新の変革に至った。この幕末期の日本近代化の途上には、幾人かの顕著な先駆者の活動があったが、緒方洪庵もその一人であった。

緒方洪庵は、文化7年(1810)に備中足守藩2万5千石という小藩の下級武士の三男として生まれた。侍の子に生まれたが、三男であった洪庵は家を継ぐべき立場にはなかった。その境遇と、洪庵の勉学開始時に、彼の父が藩財政上への理財の才を買われて大坂足守藩屋敷の留守居役となり、大坂町人との取引・交際が始まったことが、洪庵が蘭学医学研究の第一歩を大坂で踏み出す契機になった。

洪庵は人々の病苦を救済することを志し、これを自らの使命として生涯を貫いた。洪庵の人生は、文久3年(1863)に終わる五十四年の間であったが、当時は政治・経済・思想・文化・生活など、あらゆる面において身分制による規制と束縛の時代であった。その時代を強く生き抜いて、また時代に先駆けて、蘭医学者として、当時西洋の最新医学の受容・研究に務め、同時に医師として種痘の普及、コレラの治療法に画期的な業績をあげた。とくに、洪庵の大坂を中心とした除痘事業の組織的拡大への活動に、大坂町人の絶大な援助・協力を招来した意義は大きい。

また洪庵は、適塾を主宰して、教育者として、新しい日本の建設に携わる医学のみならず、多方面にわたる英才の育成に努めた。
福沢諭吉は、適塾に入門し、安政4年に塾長となった。福沢は洪庵が育成した英才の代表格であろう。「福翁自伝」には「大阪修行」「緒方の塾風」など、洪庵が主宰した適塾の実態を活写しており、緒方洪庵の伝記史料として貴重なものである。

このコーナーでは、そのような緒方洪庵の生涯及び事績について述べていきます。




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