政界進出 ~政友会総裁へ~ |
高橋は原が刺された日の朝、官邸で原にあった時「何も君が行かなくてよいではないか」「地方大会の様な党の事よりも、もっと国の政治の方に力を入れたらどうか」と言って極力止めている。高橋は、のちにこれについては、「二人で話していると、原の眼のあたりがどうも影が薄いように感じた。何とも言えぬような寂しそうな感じがしてならぬ。それで止めたのだ。いわゆる虫の知らせだね。」と語っている。 高橋は前から、健康上の理由で(脚気と胃腸病)原に大蔵大臣を辞めたいとしばしば言っていたのであるが、原が死ぬや、逆に総理大臣にさせられ、政友会総裁も引き受ける羽目になった。総理を引き受けることになったのは、ワシントン軍縮会議が始まろうとしていたことによる。原がやられ、内閣が変わるようなことになると、政府の方針が変わりはしないかという心配が起こる。そこで急いで後継内閣を決めるのに、松方と西園寺が相談の結果、原内閣の延長として高橋の総理就任となったのである。高橋内閣は、原内閣の全閣僚が留任し、大蔵大臣は高橋首相が兼任して発足した。高橋は、総理を引き受けても総裁は御免蒙る、「私は総裁には不適任だ」と言って断ったが、党の内部で「総理と総裁は不可分だ」とし、強硬に幹部会で推されてやむなく就任した。頼まれると容易に断れない人の好さがここで出たのだろう。
これに対して高橋は、このようなことには全く興味が無く、誰が何と言う人か、どんな顔をしているか、ほとんど無頓着な人であった。たとえば、この当時松本重威が主税局長で始終会って話しているのに、松本が差出人の封書が来ると、秘書官の津島に「こんな人は知らないな」と言ったりして津島をびっくりさせている。このような高橋であるから、出来るだけ早く後継総裁を見つけて辞めたいと思っていたのはおそらく事実であろう。 高橋は、人間に対する興味がほとんどゼロに近く、人の名前もろくに覚えていない。そのような性分では、党の総裁としては落第であろう。原が健在の時は、高橋は長老として立て、別格扱いにしてくれたので、それでも何とか務まった。高橋の流儀は、党中党を作る親分子分の関係を嫌っていたのだから、党内における勢力や人望が大きくなるはずがない。こんな高橋に総理と総裁のお鉢が回ってきたのだから、党内に不平が起こるのは当然である。 日銀時代から高橋の先輩であった山本達雄は、党歴も古く、第二次西園寺内閣では蔵相をつとめており、よく子分の面倒を見るというので、勢力、人望とも高橋の比ではなかった。しかも、後輩の高橋が先になったのだから、面白くなかったであろう。他の党員たちもそう思っていたに違いないのだ。
しかし、原のように自ら矢面に立って彼らをかばう力は高橋にはない。党内には早くも高橋に対するいろいろな批判が行われ、分裂の兆しが現れた。満身創痍の形で、いくつもの法案を握りつぶされたまま、辛くも議会を終えた高橋は、ここで内閣の改造を企てた。問題は内閣の弱点である元田と中橋を辞めさせ、新たに田健太郎と小川平吉を入閣させることであった。この案は野田卯太郎、岡崎邦輔の両長老にも相談し、横田千之助のたてたものであるが、党内は改造派と非改造派が対立し、無理をすれば、党は分裂の危機に直面する。やむなく高橋らも改造を一時諦めた。しかし、一カ月ほどたってから、改造派は文・鉄両相がどうしてもやめなければ、免職を上奏すべきだというようになり、小川がその上奏文を起草したり、首の座に据えられた両相も反対上奏すべきだというようになり、元田が名文章を書くというような騒ぎになった。高橋はとうとう我慢ができなくなって、内閣総辞職を行った。 このような経過を見ても、高橋が党の総裁としての統制力を書いていたことは明白である。原の亡くなったあとの党は、高橋の徳、野田の智、横田の力、岡崎の策をもってしても、到底その勢力を維持することは困難であろうとみられたが、ひとたび政権の座から滑り落ちては、280名を擁する大政党も、屋台骨が緩んで、すこぶる危ない状態にあった。総辞職以来、高橋の声望もとみに衰え、世間からは「放漫財政」のレッテルを張られ、党内では「脱線居士」のあだ名をつけられ、甚だ苦しい立場になった。 |