政界進出
 ~政友会総裁へ~
 


          原敬暗殺
原内閣在任3年を過ぎた大正10年11月4日夕刻、政友会近畿大会へ出席の為東京駅を出発しようとした時、原は大塚駅転轍手中岡良一の凶刃によって殺害された。原内閣嫌いの男にそそのかされたというが、原政友会内閣も2年余を過ぎた大正10年春頃からは、次第に攻撃を受け、また我が世の春を称える政友会の党員のうちには虎の威を狩る越権行為をほしいままにするものもあって、政友会横暴の声も次第に高まり、原が「政治は力なり」と言ったとか言わなかったとか、彼に対する風当たりは次第に強くなっていった。こうした政友会に対する不人気の中で原暗殺事件が起こったのである。
高橋は原が刺された日の朝、官邸で原にあった時「何も君が行かなくてよいではないか」「地方大会の様な党の事よりも、もっと国の政治の方に力を入れたらどうか」と言って極力止めている。高橋は、のちにこれについては、「二人で話していると、原の眼のあたりがどうも影が薄いように感じた。何とも言えぬような寂しそうな感じがしてならぬ。それで止めたのだ。いわゆる虫の知らせだね。」と語っている。
高橋は前から、健康上の理由で(脚気と胃腸病)原に大蔵大臣を辞めたいとしばしば言っていたのであるが、原が死ぬや、逆に総理大臣にさせられ、政友会総裁も引き受ける羽目になった。総理を引き受けることになったのは、ワシントン軍縮会議が始まろうとしていたことによる。原がやられ、内閣が変わるようなことになると、政府の方針が変わりはしないかという心配が起こる。そこで急いで後継内閣を決めるのに、松方と西園寺が相談の結果、原内閣の延長として高橋の総理就任となったのである。高橋内閣は、原内閣の全閣僚が留任し、大蔵大臣は高橋首相が兼任して発足した。高橋は、総理を引き受けても総裁は御免蒙る、「私は総裁には不適任だ」と言って断ったが、党の内部で「総理と総裁は不可分だ」とし、強硬に幹部会で推されてやむなく就任した。頼まれると容易に断れない人の好さがここで出たのだろう。
 政治家肌ではない高橋
高橋は本来政治家ではない。自分でもそれを自覚していた。原と比較するとまさに対照的である。原は、政党の事は大小軽重を問わず多大な興味と熱意をもっていた。原は、党員の名前や顔はもちろん、その人の履歴、その人の勢力など何もかも知っているということで、またそう努めた。したがって党員が面会に来れば、誰彼区別なくいちいち会って、陳情も聞けば話もするという態度であった。
これに対して高橋は、このようなことには全く興味が無く、誰が何と言う人か、どんな顔をしているか、ほとんど無頓着な人であった。たとえば、この当時松本重威が主税局長で始終会って話しているのに、松本が差出人の封書が来ると、秘書官の津島に「こんな人は知らないな」と言ったりして津島をびっくりさせている。このような高橋であるから、出来るだけ早く後継総裁を見つけて辞めたいと思っていたのはおそらく事実であろう。
高橋は、人間に対する興味がほとんどゼロに近く、人の名前もろくに覚えていない。そのような性分では、党の総裁としては落第であろう。原が健在の時は、高橋は長老として立て、別格扱いにしてくれたので、それでも何とか務まった。高橋の流儀は、党中党を作る親分子分の関係を嫌っていたのだから、党内における勢力や人望が大きくなるはずがない。こんな高橋に総理と総裁のお鉢が回ってきたのだから、党内に不平が起こるのは当然である。
日銀時代から高橋の先輩であった山本達雄は、党歴も古く、第二次西園寺内閣では蔵相をつとめており、よく子分の面倒を見るというので、勢力、人望とも高橋の比ではなかった。しかも、後輩の高橋が先になったのだから、面白くなかったであろう。他の党員たちもそう思っていたに違いないのだ。
 総裁としての能力を欠く高橋
かくて、原なき後の高橋内閣は、ネジが緩んだような状態で議会に臨んだ。それでも、衆議院では多数物をいわせて押し切ったが、貴族院、ことに頼みにしていた研究会がそろそろ政友会との共同責任に見切りをつけたか、冷たい仕打ちをするようになり、中橋の二枚舌問題を起こした専門学校昇格案や元田の党略的鉄道敷設法案、原の遺言ともいうべき陪審法案、過激思想取締法案などがみな貴族院の関所に引っかかって難航した。原がその精力の多くを費やして一手に担当していた貴族院工作の綱が切れたのである。高橋はその点では全くに素人同然であり、複雑な貴族院の内情を知らず、ただ虚心坦懐に事を解決しようとするのみなので、全く貴族院側の術策に陥り、とうとう中橋の進退問題で追及された結果、一蓮托生を放棄すると言明するに及んで、当の中橋は憤慨して湘南に逃避する。元田も悪戦苦闘の窮地に陥った。
しかし、原のように自ら矢面に立って彼らをかばう力は高橋にはない。党内には早くも高橋に対するいろいろな批判が行われ、分裂の兆しが現れた。満身創痍の形で、いくつもの法案を握りつぶされたまま、辛くも議会を終えた高橋は、ここで内閣の改造を企てた。問題は内閣の弱点である元田と中橋を辞めさせ、新たに田健太郎と小川平吉を入閣させることであった。この案は野田卯太郎、岡崎邦輔の両長老にも相談し、横田千之助のたてたものであるが、党内は改造派と非改造派が対立し、無理をすれば、党は分裂の危機に直面する。やむなく高橋らも改造を一時諦めた。しかし、一カ月ほどたってから、改造派は文・鉄両相がどうしてもやめなければ、免職を上奏すべきだというようになり、小川がその上奏文を起草したり、首の座に据えられた両相も反対上奏すべきだというようになり、元田が名文章を書くというような騒ぎになった。高橋はとうとう我慢ができなくなって、内閣総辞職を行った。
このような経過を見ても、高橋が党の総裁としての統制力を書いていたことは明白である。原の亡くなったあとの党は、高橋の徳、野田の智、横田の力、岡崎の策をもってしても、到底その勢力を維持することは困難であろうとみられたが、ひとたび政権の座から滑り落ちては、280名を擁する大政党も、屋台骨が緩んで、すこぶる危ない状態にあった。総辞職以来、高橋の声望もとみに衰え、世間からは「放漫財政」のレッテルを張られ、党内では「脱線居士」のあだ名をつけられ、甚だ苦しい立場になった。




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