政界進出
 ~反動恐慌~
 


      反動恐慌への救済政策
大正8年の異常な好況は、大正9年に入っても続くのだが、3月に至って株式市場の崩落が起こり、4月に入ると商品市場の瓦解が始まり、戦時以来の好況に対する反動恐慌に発展する。このときも政府は、日銀および預金部資金による積極的な救済融資を展開するのである。この時以後、日銀及び特殊銀行は救済銀行化し、預金部資金は地方資金と救済資金に流用され、不良貨問題をおこすことになる。特銀のうち日本興業銀行は主として大企業救済に、日本勧業銀行は中小企業救済にあたるのである。
以上のような救済政策は、大正年間の慢性不況を通じて採り続けられるのである。
「かくて大正9年以降においては日本国家の努力は主としてこれら事業の救済に向けられた。そしてそれに要した費用の多くは公債によって調達され、その公債の負担は長く納税者たる国民大衆の上へ押しつけられたのである(大内兵衛「日本公債論」)」
大正9年から大正末までの7年間に発行された公債は19億円に達した。この19億円が全部直接資本救済に当てられたわけではない。しかし、戦後の積極的な財政政策が不況のうちにある企業を間接的に救済する役割を果たしたことは明らかである。
 高橋への批判強まる
大戦終了後も上記のような積極政策で景気の昂揚を促し、整理、合理化を怠ったという点で、高橋の膨張政策に対する批判はかなり強いものがある。西野喜与作は「歴代蔵相伝」のなかで、高橋について「政友会の党略と、財界の景気に幻惑されて積極政策をとり、軍備、交通機関、教育機関の大拡張をやって、折からの物価騰貴と相俟って蔵計の膨張を招来したこと、景気政策を誤って、物価の暴騰、企業投機熱の横行を見て、大正9年以後の反動を激烈にさせた点は、失敗と言える」という批判をしている。
「日本の大蔵大臣」のなかで、遠藤湘吉は「第一次大戦のブームにより日本経済は投機的に水膨れしていたため、戦後はむしろ引き締め基調で臨むべきであったのに、高橋が終始積極政策を取り続けたことは、かえって不況を慢性化させるものであった」と言っている。さらに、このような高橋の政策の根拠をなしたものとして、「大正8年6月の金解禁を、我が国がしなかった点にある」と断じている。これは石橋湛山も同様の事を指摘し、その原因を高橋が重金論者のせいだとしている。
大戦が終わった当時の日本は大きな債権国になっており、アメリカが金本位へ戻ってからは金がどんどん入ってきたのだから、日本も金解禁をすれば、国際物価水準のもとに、戦時中に設立拡張された企業は必然的に、整理・合理化を進めることになり、健全な経済の発展をすすめることができたはずである、という批判である。
 中国政策の為の重金主義
それでは、何故高橋は金解禁を避けたのであろうか。高橋は確かに重筋主義的な考えをもっていたのだが、そのうえさらに中国の問題が関連していた。原と高橋は大正6年当時の21カ条に見られるような威圧的な要求を出すことには反対であった。あくまで経済的友好的に中国を支配したい考えであった。高橋の場合それが重金主義的な考えと結びついていたといえる。高橋は後年、次のように述べている。
「その当時の我が朝野の対支意見は今から思えばかなり積極的、アグレッシブなものであった。しかし私は武力的侵略には反対であった。武力で侵略したものは必ずいつかは武力で奪還される。支那は今でこそ国乱れ、混沌としているが、何れは国情安定するときが来るであろう。そのときに国を治め民を鎮めたるには、鉄道を敷いたり、産業を興したりしてまず要るものは金だ・・・・。そしてその場合に日本が5,6億円くらいの金をたちどころに貸せる用意をしておかなければならぬ。海外においてある正貨は一度事あれば役に立たぬ。だから内地に保有する金はなるべく殖やすように努めて、出てゆくことを制すべしというので、大正8年6月米国が金の輸出を解禁したときにも、またその後金が続々と我が国に入ってきたときにも、我が国の金解禁はこれを断行する気が無かった」
政友会の積極政策は、大正末期の慢性不況の原因をなすのであるが、関東大震災の打撃によって、国際収支の悪化はますますひどく、為替相場の低落動揺と共に、産業資本家の中からも金解禁の要望が出始めるのである。そしてまた引き伸ばされた企業の整理・合理化は、結局金融恐慌によって強行されることになり、その跡始末を結局高橋がすることになる。なお、大正9年8月高橋は戦後の行賞で子爵となった。




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