高橋是清は大正2年(1913)2月、日銀総裁より転じて政友会に入った。このころの政治情勢は、長い間政権を維持してきた軍閥出身の桂太郎内閣が、政党の反対が激しくなり、失脚の日が次第に近づいてきた。桂は単独政権の組織をもって政友会を切り崩し、議会の多数を制しようとし、内務大臣大浦兼武に各派陣営の錯乱を図らせた。しかし、政友会、国民党両党を主体とする在野党の結束は固く、大正2年2月5日、元田肇、尾崎行雄、松田正久、犬養毅らを提案者とする内閣弾劾決議案が圧倒的多数の賛成をもって議会に提出された。尾崎は閥族の横暴を責め、「彼らは忠君愛国をもって一手専売の如く唱えているが、彼らのなすところを見るに、常に玉座を胸壁とし、詔勅を弾丸として政敵を狙撃せんとするものである」と鋭く攻撃した。
西園寺総裁は聖論を拝して何とか政友会を鎮めようとしたが、犬養などは「時局紛糾の度ごとに聖論を拝するごときは憲政上の大問題だ。政友会は西園寺を離れてその主張に邁進すべきである」と万丈の気焔をあげた。こうして政友会もとうとう内閣打倒に突進することになり、議会は数万の群衆に包囲され、国民、報知その他の新聞社、交番などが焼き討ちされるに至り、さすがの桂も内閣を投げ出さないわけにはゆかなくなった。これを、第一次護憲運動という。
後を継いだ内閣の首班は、海軍の大御所で薩摩藩出身の大物山本権兵衛であった。山本はまず組閣にあたって、政友会の西園寺、原敬、松田正久らと政治的折衝を開始した。だが、政友会がどんなに政権を望んでいても、長州・陸軍の桂を排撃した後で、すぐまた薩摩・海軍の山本を迎えるという節操のなさを世にさらすことはできない。そこで、山本が政友会へ入党することを要求したが、海軍あっての山本はこれに応じられない。結局両方の妥協は、政友会から松田、原、元田の三人が入閣するか、その代わりに陸、海、外務の三大臣を除くほかはすべて政友会へ入党すると同時に、政友会の政策を内閣の施政方針に織り込むことになった。この申し合わせに従って新内閣の閣僚である高橋是清蔵相、山本達雄農商務相、奥田義人文相の3人は政友会へ入党することとなった。一方、閥族打破と憲政擁護をあくまで叫ぶ尾崎行雄、岡崎邦輔ら24名は脱党して政友倶楽部を組織したので、政友会は議会の絶対多数を失い、国民党も政友会との提携を断った。
高橋が政界入りするに至った直接のきっかけは、実は山本権兵衛にあった。高橋がちょうど日銀の重役会議を開いているところへ、突然知り合いでもない山本から海軍省へ来てくれという電話がかかってきた。行くといきなり「自分は組閣の大命を拝した。一つ大蔵大臣になってくれ」と言われた。高橋は、自分なんかが大蔵大臣になって、何もできないことや、山本とは一面識もない仲であるのに、というようなことを言うと、山本は「君のことは松方公(正義)からよく聞いていて、日露戦後の財政や経済のことで民間でよくこれに通じているのは高橋だと言われて覚えていた。また君は、国家のためならば、己を空しうして尽くすということを聞いた。君を大蔵大臣にするといっても、君一人の手腕を頼りにするというわけではない。君の精神を頼りにして頼むのだ」と山本は口説いた。高橋はその場ですぐ引き受けた。高橋自ら「わずか5分くらいで決まってしまった(高橋随想録より)」といっている。
結局そのあとで、すぐ政友会との交渉で高橋も入党する必要が生じ、山本は政友会に入らないのではないかと心配して、牧野伸顕に説得を頼んだのだが、高橋は次のように答えて簡単に入党した。
「一体はじめから一身を空しうして国家のために尽くすということでお受けした。政党に入るか入らぬかは一身に関することである。入ることが必要だから入れと山本伯が言うならば入る(随想録より)」
高橋はこのとき60歳。体格は非常に肥え、恰幅も堂々としており、容貌も豪快といった感じで、頼もしさを与えるには十分であった。 |