高橋是清のおいたちとキャリア
 ~2.26事件~
 


昭和11年(1936)2月25日、高橋是清はいつもより早く、午後3時ころ大蔵大臣官邸を退出して、赤坂表町の私邸へ帰った。この日はちょうど娘のみよ子が里帰りで戻ってきていたので、久しぶりに家内がそろって食事でもしたいという家の者の希望であった。
はじめ高橋は、「そんな私事で早退するのは・・・」と難しい顔をしていたが、秘書官の久保文蔵が「もう今日は別に重要な用事もございませんから」と追い立てるようにして私邸へ送ったと言われる。
東京には珍しい大雪の降った、あくる26日の明け方5時ころ、ドスンドスンとものすごい音を立てて、高橋の邸の表門を壊す者があった。女中の阿部千代子がただならぬ気配を感じて、二階十畳に休んでいる高橋のところへ駆け上がった。高橋も、何事か起こったと直感し、白い寝巻のまま床の上に座っていた。そして、駆け込んできた女中を見て、「何だあれは、雪の落ちる音かね」と立ち上がってみようとした。そのとたん、四列縦隊を組んで階段をドカドカと上ってきた兵隊が部屋へなだれ込んだ。
高橋のまなざしが、険しくきらりと光り「何をするかっ!」と大声にしかりつけるのと、バンバンというピストルの発射音がほとんど同時であった。高橋は胸から腹のあたりへかけて七発の弾を撃ち込まれ、がっくり倒れてうつ伏せになった。すると兵隊を引率してきた若い中尉が、倒れた高橋の右肩から胸部へかけて袈裟懸けに切り下した。白い寝巻は朱に染まり、あたりは泥だらけの兵隊靴でふみにじられた。
達磨というニックネームで国民から愛されてきた83歳の老財政家は、こうして非業の死を遂げたのである。
この日、高橋私邸の襲撃を受け持った中橋基明中尉は、26日未明3時ころ、近衛歩兵第三連隊第七中隊の兵を突入隊と守備隊とに分け、折から隊内に来ていた鉄道二連隊付の中島莞爾少尉とともに営内の今泉義道少尉のもとにゆき、蹶起をすすめ、今泉を控兵の副司令にあて、行動を共にさせることとした。そして4時ころ非常呼集を行い、明治神宮参拝に名をかり、約120名の下士官兵を指揮して4時半ころ兵営を出発、降りしきる雪の中を駆け足で赤坂表町の高橋邸へ向かったのである。5時5分頃門前到着と同時に三隊に分かれ、一隊は邸の周囲の要所に備え、一隊は電車通り付近に軽機関銃を据えて交通を遮断した。中尉は残る一隊数十名を率いて警官の警戒線を突破し、屋内へなだれ込んだのである。青年将校を主体とする反乱軍によって、この日襲撃された重臣将官のうち難を逃れたのは、岡田啓介首相、後藤内務大臣、牧野元内府で、斎藤内大臣、渡辺教育総監、そして高橋是清蔵相は即死、鈴木貫太郎侍従長は重傷であった。
2.26事件は、軍部が満州事変以来歩みだしていた日本の軍国主義的コースに対する最後の抵抗を排除するものであった。これらの青年将校グループは、結局背後にある軍部内の主導力に踊らされたに過ぎない。そしてこの日に日に強大化しつつあった軍部に、予算の面で真っ向から抵抗していたのが、老財政家高橋是清であった。
愚かな青年将校たちによって、その生涯を閉じた高橋是清の生涯とその功績について、ここでは振り返りたいと思う。




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