近衛に出馬を要請する陸軍や政界要人の訪問は続き、新聞でも盛んに報じられた。しかし昭和15年(1940)1月31日近衛は記者団に「僕は経済問題に関しては全く自信がないのだ。漠然たる門地や人気、親和力、そんなものに頼ることは危険だ」と、出馬を完全に否定した。陸軍出身者を首班とする内閣で物価統制が失敗し、統制に対する不満から保守系政党の人気回復傾向が見られたことを踏まえると、この状況で出馬しても、統制強化をはかりつつ戦争を乗り切るという、当時の近衛の持論の実現は難しいと近衛が判断したことがわかる。結局、1月16日、米内光政政権が成立した。
こうした状況の変化の端緒は、2月2日の衆議院本会議における、民政党代議士斎藤隆夫のいわゆる反軍演説事件である。斎藤はこの演説で、「新東亜秩序」声明を、抽象的過ぎて戦争収拾の手立てとなり得ないと批判した。この演説に対して、日本の国論が分裂しているとの印象を内外に与え、蒋介石政権を利する、という批判が軍部や政界から出て、斎藤は3月7日に衆議院から除名された。これを機に、いわゆる親軍派の少壮代議士を中心に3月25日に結成された聖戦貫徹議員同盟は、挙国体制確立のための新党結成を主張した。そして、新党党首に近衛を担ぎ出すことを、久原房之助、有馬頼寧、風見章らが画策し始めた。
そうした動きの追い風となったのが、前年9月1日に始まった第二次世界大戦の戦況の急変だった。昭和15年4月、ドイツ軍は電撃戦を開始して瞬く間に西ヨーロッパを席巻、6月14日にフランスの首都パリを占領した。有馬頼寧が5月中旬の日記に、「日本の政治の現状を見ていると、世界の動きに置き去られる気がする」と書いたように、政界の一部では、ナチスドイツがその団結力でヨーロッパの覇権を獲得したと認識し、日本もこれに習い、かつドイツとの同盟を強化することで、国際的な困難を乗り切れるのではないかとの思惑が浮上した。
5月26日、近衛、有馬、木戸が集まり、第二次近衛内閣成立後に新党運動を開始するとし、首相、陸海両相だけで組閣し、新党樹立後に党員から閣僚を採用することなどを申し合わせた。6月1日、昭和研究会の会員で、後藤隆之介の紹介で近衛に初対面した東京帝大法学部教授の政治学者矢部貞治は、近衛から、新興勢力3で既成政党2ぐらいで工作しているが、将来新興勢力と旧党が衝突すれば、新興勢力と一緒にやるという意向を聞いている。
同じ6月1日、病気を理由に引退を希望していた湯浅倉平に代わり、木戸幸一が内大臣に就任した。昭和天皇、湯浅、松平恒雄宮内大臣、近衛枢密院議長、米内首相、そして最終的には元老西園寺の賛同を得た人事だった。木戸の就任理由は、「近衛はいいが、少し色々なものが大勢付き過ぎているのと、更に将来、実際政党を担当する必要がある」という昭和天皇の松平宮相への言葉と、原田熊雄が要人たちから話を聞いた結論として、「木戸なら宮中のことも相当知っており、最近の政治の事情にも精通している」と記したあたりに集約されている。つまり、宮中と政界の事情に明るく、かつ首相候補でないために木戸が採用されたのである。 |