大政翼賛会へ ~近衛待望論~ |
8月23日、平沼騏一郎から辞意を聞いた湯浅内大臣は、近衛、木戸と協議し、広田弘毅を後継候補とした。しかし、西園寺公望は「自分には意見が無い。今日のような陸軍の勢力では困る。誰がやっても非常に難しい。日本はどうしても英米仏と一緒になるようにしなければならん」と、賛否を保留した。広田自身は後継首班に近衛を推した。 そこで近衛は池田成彬を推した。これに対し西園寺は、近衛が主導するならば賛成するとした。西園寺が、陸軍が政治の主導力であり、近衛を親軍派と認識していたこと、池田が第一次近衛内閣の蔵相時代に陸軍と対立したことを踏まえると、西園寺は近衛の推薦により陸軍が協力しなければ、池田成彬内閣は成立しないと考えたのである。
近衛は、阿部内閣成立に決定的な役割を果たした。しかし、阿部内閣は物価政策の失敗など失政が続いたため、世論や議会のみならず、陸軍からも見放され、昭和15年初頭には後継首相人事が話題となる状況となった。日米の国交調整も、親米派海軍高官の野村吉三郎が外相に迎えられたものの、日本側は「東亜新秩序」政策の理解をアメリカに求めるのみだったため交渉は進まず、昭和15年1月26日、日米通商航海条約は失効する。
陸軍も後継首班に近衛を推していた。しかし、近衛は湯浅内大臣に出馬を強く否定したため、湯浅は米内光政を天皇に推薦する意思を固めた。 |