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 ~近衛待望論~
 


 政権交代への関与
枢密院議長在任中でもう一つ注目すべきは、政権交代への関与である。平沼内閣は、防共協定強化問題を巡って紛糾し、平沼首相は強化に反対の昭和天皇と、強化実施を主張する陸軍や出先外交官の板挟みになって苦慮していた。そこへ、昭和14年8月22日、突如独ソ不可侵条約が締結された。防共協定の強化は意味が無くなり、平沼は23日に近衛と相談の上、29日に内閣総辞職に踏み切った。
8月23日、平沼騏一郎から辞意を聞いた湯浅内大臣は、近衛、木戸と協議し、広田弘毅を後継候補とした。しかし、西園寺公望は「自分には意見が無い。今日のような陸軍の勢力では困る。誰がやっても非常に難しい。日本はどうしても英米仏と一緒になるようにしなければならん」と、賛否を保留した。広田自身は後継首班に近衛を推した。
そこで近衛は池田成彬を推した。これに対し西園寺は、近衛が主導するならば賛成するとした。西園寺が、陸軍が政治の主導力であり、近衛を親軍派と認識していたこと、池田が第一次近衛内閣の蔵相時代に陸軍と対立したことを踏まえると、西園寺は近衛の推薦により陸軍が協力しなければ、池田成彬内閣は成立しないと考えたのである。
 阿部政権樹立
25日、陸軍内部からは、阿部信行元陸軍次官を推す声が現れた。すると近衛は、池田推薦を渋り始めた。27日、湯浅倉平は近衛と相談の上、後継候補を阿部に絞り、28日午前、平沼内閣が総辞職すると、湯浅は天皇の指示で西園寺を訪ね、近衛と相談のうえで阿部ではどうかと聞いたところ、西園寺が承諾したので、天皇は阿部に組閣を指示した。こうした8月30日、阿部信行内閣が成立した。
近衛は、阿部内閣成立に決定的な役割を果たした。しかし、阿部内閣は物価政策の失敗など失政が続いたため、世論や議会のみならず、陸軍からも見放され、昭和15年初頭には後継首相人事が話題となる状況となった。日米の国交調整も、親米派海軍高官の野村吉三郎が外相に迎えられたものの、日本側は「東亜新秩序」政策の理解をアメリカに求めるのみだったため交渉は進まず、昭和15年1月26日、日米通商航海条約は失効する。
 近衛待望論
そうしたなか、昭和15年1月4日付「東京朝日新聞」朝刊の「地方に聴く」は、「一部で近衛さんはやはり良家の生まれであって、迫力がない、責任感が無い」という批判もあるが、「三内閣の中では近衛内閣が一番評判が良い。これは民衆の印象というか、近衛公に対する信頼の念というか、そんなもとに基づいている」ので、近衛の再登場を一般に期待する空気が濃厚だと報じた。つまり、第一次内閣の失敗を踏まえても、平沼内閣や安倍内閣よりもましだという理由で、近衛再出馬を期待する世論が高まっていたのである。
陸軍も後継首班に近衛を推していた。しかし、近衛は湯浅内大臣に出馬を強く否定したため、湯浅は米内光政を天皇に推薦する意思を固めた。




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