この時期の近衛で目立つことといえば、対中関係についての活動である。第三次近衛声明で対等協力ができると信じていた汪兆銘は、影佐ら陸軍側と今後について協議する中でそれが難しいことを知り、衝撃を受けた。そこで昭和14年2月4日付の近衛宛の手紙を高宋武に託し、新しい「政府には貴国と平等の地位が必要である。そうして初めて全国の人民の了解と信任を得ることができる」と訴えた。新政権が国民の支持を得るためには、日本との実質的な対等化が必要だと主張したのである。
昭和14年6月、汪は今後の方針を日本側と協議するため来日、6月14日には近衛と会見し、日本政府との関係対等化を再び主張した。しかし近衛は、「吾朝野は挙げて貴下に信頼し」と応じたのみで、汪への明確な賛意を示さず、会談内容もこの部分は公表されなかった。
汪は、9月24日付の近衛宛の手紙でも、再度対等化を主張した。しかし、「東京日日新聞」10月11日付朝刊掲載の「汪兆銘と私」において、近衛は、汪政権に対して日本が「充分に指導しなければならない」と、汪の希望を事実上拒否した。近衛は新政権の事実上の傀儡国家化を定めた「日支新関係調整方針」決定に賛成していた以上、不思議ではない。もちろん、日本政府も軍部も同じ意向であった。
昭和15年、高宋武ら汪グループの一部が、事実上汪の容認のもとに香港へ脱出し、第三次近衛声明と日本側の本音の違いを暴露して、日本の非を世界へ訴えたのは当然の結果だった。汪兆銘政権は、占領地に日本軍が作った親日政権を続行する形で昭和15年3月30日に南京に成立したが、中国の人々の支持は得られず、荊の道を歩むことになる。
一方、昭和13年夏にプリンストン大学を中退して首相秘書官となっていた長男文隆は、内閣退陣後、上海に渡って東亜同文書院主事となったが、現地で蔣政権との和平工作に関わり、誘拐されそうになるなどして近衛を心配させた。もっとも近衛本人も、小川平吉と萱野長知による蔣政権との和平工作に依然関与していた。
しかし、日本側が中国からの全面撤兵など譲歩を示さない限り、蒋が応じる筈もなく、むしろ天津のイギリス租界封鎖などにより、中国を支援するイギリスに日本軍が圧力をかけ続けるのを見たアメリカは、日本に圧力をかけるべく7月26日に日米通商航海条約の破棄を通告した。 |