生い立ち ~父篤麿~ |
東亜同文会は「支那」の保全や、「支那及び朝鮮の改善を助成す」「国論を喚起す」などを綱領として掲げた。日本が東アジアを欧米列強の進出から守ることを主張した点で、アジア主義を掲げた民間政治団体の典型といえる。ただし、明治40年12月にはこの綱領を削除し、会の事業は学校運営や出版が中心となっていく。そして、大正11年2月制定の財団法人東亜同文会寄付行為第二条に、「日華両国の文化を発達せしめ両国人士の交誼を厚ふし」と明記された。文化事業によって日中親善を図るという、文化事業団体としての性格をはっきりさせたのである。
篤麿は、アジア主義に基づく外交政策の実現に尽力した貴族政治家であった。日本主導による欧米からのアジア独立という考え方は、当時からアジア主義と呼ばれているが、地域的には東南アジアまで含める場合は、大アジア主義という言葉が使われることもあった。 東亜同文会や国民同盟会、対露同志会に集まった、頭山満、五百木良三、小川平吉、大竹貫一などは、彼らが日本主導による欧米からのアジアの独立を主張した関係で、内政に関しては天皇の永遠性、絶対不可侵性を奉じ、それに反すると考えられる人物や運動、組織を排除する、いわゆる精神右翼の活動家となっていく。
明治36年6月、9月からの学習院初等学科入学に先立ち、文麿を東京市立泰明小学校に通わせた際には、篤麿自身が同校に赴いて交渉しており、学習院入学後の10月には、文麿と文麿の友人を連れて八王子方面への外出を試みたことが記されている。文麿の学業成績や動静についての記事も多く、文麿に多大な期待をかけていたことがわかる。 一方、中国から神戸に帰着した篤麿に、文麿が避暑中の日光から出した明治34年8月28日付の手紙の「おもうさま(父親を指す公家言葉)はさぞ支那で御暑う御座りましたろう」という一文や、「幼い弟と、まだ小学生であった我々が食後のひと時、兄からシェイクスピアの話、カントの哲学、天体の話など毎日異なった色々の話を聞くのは楽しみであった」という秀麿の回想からは、文麿の家族思いの優しい一面がうかがえる。 |