近衛の家族と生活 ~妻子~ |
大正元年頃、近衛は目白の自宅と一高の通学途中で見かけた千代子を見染めた。近衛家側には公爵と子爵という家柄の差を気にする声も上がったが、近衛本人の熱意を母貞子が認め、柔道の創始者として著名な嘉納治五郎夫妻を仲人に立てて毛利家と交渉し、5月に婚約した。嘉納に依頼した経緯は不明だが、当時東京高等師範学校の校長だった嘉納は、学習院の教員をしたこともあったので、その関係と推測される。 結婚は、近衛の京大入学後の大正2年11月となった。近衛夫妻は京大キャンパス近くの吉田山の麓に新居を構え、塚本義照という少年を使用人とした。近衛夫妻は、大正4年4月に長男文隆、翌年11月には長女昭子、大正7年には次女温子、大正11年5月に次男通隆の二男二女をもうけた。千代子は昭和55年死去。
長女昭子は島津家に嫁いだ後、野口式整体術を創始した整体師野口晴哉と再婚し、何冊かの随筆集や句集を残し、平成16年(2004)に死去した。 温子は昭和12年4月に旧肥後藩主細川侯爵家の御曹司細川護貞と結婚したが、15年8月に23歳の若さで死去した。その遺児が、戦後首相となった細川護熙である。 次男通隆は、東京帝国大学文学部で日本史を専攻し、その後東京大学史料編纂所に入り、のち教授となった。東大を定年退官後、陽明文庫理事長などを務め、平成24年死去した。 家庭の様子については、近衛の最初の首相就任時に水谷川が「一度家庭に帰ればよき主人であり、子煩悩の良い父親で、家庭内はいつも明るく、子供たちものびのびと、明朗な性質に育てられている」と述懐している。 |