近衛の家族と生活
 ~妻子~
 


 恋愛結婚
近衛は大正2年(1913)11月9日、毛利千代子と結婚した。華族ではもちろん、当時は一般的にも極めて珍しい恋愛結婚である。千代子は明治29年(1895)子爵毛利高範の次女として生まれ、明るく利発な性格だった。実家は九州の豊後佐伯藩という小藩の藩主の家柄である。父高範は毛利式速記術の創始者で、千代子は妹泰子とともにこの速記術を学んだ。泰子はのちに近衛秀麿に嫁ぎ、昭和戦前・戦中政治史の根本史料の一つとしても有名な「西園寺公と政局」の速記者として歴史に残す事になる。この史料は、昭和5年(1930)に元老西園寺公望の秘書となった原田熊雄が、日頃の政治活動や会見した政治家たちの言動を、泰子に口述筆記させたものである。
大正元年頃、近衛は目白の自宅と一高の通学途中で見かけた千代子を見染めた。近衛家側には公爵と子爵という家柄の差を気にする声も上がったが、近衛本人の熱意を母貞子が認め、柔道の創始者として著名な嘉納治五郎夫妻を仲人に立てて毛利家と交渉し、5月に婚約した。嘉納に依頼した経緯は不明だが、当時東京高等師範学校の校長だった嘉納は、学習院の教員をしたこともあったので、その関係と推測される。
結婚は、近衛の京大入学後の大正2年11月となった。近衛夫妻は京大キャンパス近くの吉田山の麓に新居を構え、塚本義照という少年を使用人とした。近衛夫妻は、大正4年4月に長男文隆、翌年11月には長女昭子、大正7年には次女温子、大正11年5月に次男通隆の二男二女をもうけた。千代子は昭和55年死去。
 子供たち
長男文隆は、学習院中等科中退後、昭和7年にアメリカのローレンスヴィルハイスクールに留学、昭和9年にプリンストン大学に進学したが、昭和13年夏に中退し、帰国して父の首相秘書官を務めた。第一次近衛内閣退陣後は上海に渡り、東亜同文書院主事を務めたが、15年2月に召集され、主にソ満国境に配属され、最後は中尉まで昇進した。19年10月結婚、敗戦後ソ連軍に抑留され、戦犯として禁固25年の刑を受け、昭和31年抑留先で死亡した。
長女昭子は島津家に嫁いだ後、野口式整体術を創始した整体師野口晴哉と再婚し、何冊かの随筆集や句集を残し、平成16年(2004)に死去した。
温子は昭和12年4月に旧肥後藩主細川侯爵家の御曹司細川護貞と結婚したが、15年8月に23歳の若さで死去した。その遺児が、戦後首相となった細川護熙である。
次男通隆は、東京帝国大学文学部で日本史を専攻し、その後東京大学史料編纂所に入り、のち教授となった。東大を定年退官後、陽明文庫理事長などを務め、平成24年死去した。
家庭の様子については、近衛の最初の首相就任時に水谷川が「一度家庭に帰ればよき主人であり、子煩悩の良い父親で、家庭内はいつも明るく、子供たちものびのびと、明朗な性質に育てられている」と述懐している。




TOPページへ BACKします