日中戦争と近衛
 ~対手とせず~
 


 御前会議
日本が示した和平案に対し、中国側は期限までに明確な意思を示さなかった。蒋介石は持久戦に持ち込むことを決意していたのである。近衛は、対ソ戦準備のためなお中国との交渉を希望する参謀本部を押し切り、昭和13年(1938)1月11日、昭和になって初の御前会議(天皇、参謀総長、軍令部総長、首相、陸相、海相、内相、蔵相が出席)において、「帝国不動の国是は満州国および支那と提携して東洋平和の枢軸を形成し、之を核心として世界の平和に貢献するにあり」という方針に基づき、「支那現中央政府が和を求め来らざる場合に於いては、帝国は爾後之を相手とする事変解決に期待をかけず、新興支那政権の成立を助長し、これと両国国交の調整」をするという、「支那事変処理根本方針」を決定した。
 対手とせず
結局、中国政府の回答はなく、日本政府は1月16日に、「爾後国民政府を対手とせず」という政府声明(第一次近衛声明)を発し、「対手とせず」の意味については、閣議で「否認とともに且つ更にこれを抹殺せん」という解釈を決定した。
ただし、18日の記者会見で、近衛は「日本は飽く迄政権壊滅を計るのだから日本との間に今後和協の話の起こりようがない」が、「蒋介石政権が、親日政権の下に合流するということならば、こちらの察知したことではない」と含みを持たせた。そしてこれが、以後日本政府の方針ともなっていく。
なお、御前会議の決定文書より、記者発表の方が強い言い方になった理由については、近衛は昭和15年2月に昭和天皇に対し、「最初は左程強い意味はなかりしも議会の関係に於いて非常に堅苦しきものとなれる」と述べている。つまり議会対策だったと弁明している。
 日中戦争長期化へ
第一次近衛声明発出まで経緯については、戦死傷者が10万人を超え、戦費負担も増大する中で、国民の不満を抑えるために交渉案が強硬化し、蒋介石政権との交渉を事実上不可能にしたとして、ポピュリズム、即ち人気取り政策だったと評されることが少なくない。しかし、親日新中央政権との和平という方策は、昭和12年9月に政治家としては近衛が最初に提唱してから、近衛が主張し続けており、場当たり的な政策ではない。しかも、蒋介石政権との交渉案の審議時にポピュリズム的発言を封じたのは近衛である。したがって、天皇への発言は、失政の弁明と解釈するのが適切である。いずれにせよ、第一次近衛声明によって、日中戦争の長期化は決定的となったのである。




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