日中戦争と近衛
 ~日本孤立化~
 


 日本の国際的立場の悪化
その後の日中関係であるが、9月下旬にイギリスのクレーギ―駐日大使が広田外相に和平仲介を申し出た。上海攻防戦で日本軍の苦戦が続いていた9月28日、近衛が原田熊雄に「支那軍は予想以上に強い。祖国に対する非常な愛国心なり、抗日の精神なりが強く教育されている」と述べたように、日本側も危機感を募らせた。その結果、10月1日に首相、外相、陸相、海相による四相による会議で、「従来の行きがかりに捉われざる、画期的国交調整」を目標とする「支那事変対処要綱」を決定した。しかし、国内の反英運動が高まったため、和平工作は沙汰止みとなった。
しかも、日本海軍の航空隊による南京や上海への爆撃は、9月28日に国際連盟による非難決議の可決、日本を隔離せよという10月5日のアメリカ大統領ルーズベルトの演説、10月6日に連盟総会での九ヶ国条約会議への日本招請決議を招くなど、日本の国際的立場を悪くした。近衛内閣は、10月22日の閣議で九ヶ国会議出席拒絶を決定、11月12日、今回の日本の行動は自衛行動なので九ヶ国条約の範囲外であり、「今次の事変は東亜の特殊事情に基づく」ので両当事国間において処理すべきという回答文を発して正式に拒絶した。日本政府は国際的な弁明の機会を自ら放棄したのである。
 親日中央政権との和平工作
10月下旬の膠州湾上陸作戦を機に日本軍が優勢となり、上海が11月12日に陥落すると、11月17日蒋介石政府は長期抗戦のため臨時首都を重慶に移した。そして11月26日の記者会見で、近衛は、蒋介石政権が反省せずにどこまでも長期抗戦を続けるのならば、日本は長期にわたる蔣政権に徹底的打撃を与えると述べ、さらにその間に中国各地に「独立政権」ができて中国の半分を占めるようになれば、中国の中央政府とみなす旨を述べた。長期戦を覚悟する一方で、改めて親日中央政権との和平を示唆したのである。
この頃近衛は、北支那派遣軍が親日中央政権擁立を進めていることを知った。これを近衛から聞いた小川平吉は、新政府が中国の中央政権だと自称しても、中国の人々の支持や財力がないので、日本が擁立しても無意味だと、のちの展開を予言するかのように批判した。しかし近衛は、「宣統帝(溥儀)の復位とならば名義だけは立つ」とはぐらかしたという。親日政権樹立は9月の演説で近衛が示唆した方策なので、近衛が否定できるわけもなかった。
 トラウトマン工作
11月5日から、駐中ドイツ大使トラウトマンによる日中和平交渉(トラウトマン工作)が始まった。日本政府が最終的に交渉条件を決めたのは12月21日の閣議である。その間、12月13日に南京陥落、14日に北京を首都とする親日中央政権(王克敏政権)樹立と馬場鍈一の病気による末次信正への内相更迭があった。南京陥落時に近衛は、「北京、天津、南京、上海の四大都市を放棄した国民政府なるものは実態無き影に等しい。然らば国民政府の崩壊の後を受けて方向の正しい新政権の誕生する場合は日本はこれと共に共存共栄具体的方策を講ずる」という声明を発した。翌日に成立が迫っていた親日中央政権を重視する方針を明言したのである。
蔣政権との和平交渉案の検討は、13日から17日にかけての大本営政府連絡会議で行われたが、14日の会議で末次内相が講和条件について「よほど強硬にやらないと」国民や軍人が収まらないと述べたのに対し、近衛は、「自分は反対である。自分たちとしては何処までも中外から見て、なるほど日本の主張は正当であり、日本の要求は公正である、と言われるような内容を持った講和条件でなければならないと思う。国民が収まらないからとか、軍人が不平を言うからと言って、不可能な事、あるいは無理なことを日本が要求することは、国家の威信に関する」と述べ、末次内相は発言を撤回した。
その結果決まった内容は、日満支の共同防共、主要地区への非武装地帯設定、日満支経済提携、賠償実施、本年中の回答を要求するなどというものだった。結局はかなり強硬な内容となったが、ここまでの検討から明らかなとおり、それは国民世論や陸軍に配慮したからではなく、年来の近衛の外交論から当然導き出される性質のものであった。




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