日中戦争と近衛
 ~支那事変~
 


 強硬姿勢貫く
杉山陸相は7月9日の閣議で、三個師団(約6万人)増派のため経費支出を求めた。これは、不拡大、現地解決の方針なら不要という広田外相の反対で保留となったが、近衛は強く一大打撃を与えるべきだとして派兵に賛成だった。翌11日午後、杉山陸相から再び衝突が起きたとして改めて派兵経費支出が提案され、午後2時の臨時閣議で経費支出と声明発出、「北支事変」という呼称が決定された。その声明は、今回の事件は全く中国側の「計画的武力抗日」で、「北支治安の維持」が日本と満州国に必要なので派兵するが、「政府は今後共局面不拡大の為平和的折衝の望みを捨てず、支那側の速なる反省によりて事態の円満なる解決を希望す」となっていた。
不拡大を基本方針としながらも、すべての責任を中国側に押し付ける強硬かつ身勝手な内容である。そしてこの日の夜、近衛は貴衆両院、言論界、財界の代表を首相官邸に招き、「帝国としては重大な決意をせねばならぬ。反省を促すために派兵し平和的交渉を進める」と述べて協力を要請、出席者は同意した。この近衛の措置は、陸軍の方針に従って華北権益を維持しつつ、事態を早期に収拾したいという理由で中国へ強硬態度に出たと解釈するのが最も説得的である。
 目論み失敗
この日、派兵決定と入れ違いに現地では停戦が成立し、参謀本部では近衛首相が南京に行って蒋介石と交渉して早期収拾を図るという案が作られ、翌日、華北親日政権解消の代わりに満州国承認を認めるという案が参謀本部第一部長の石原莞爾から風見章に申し入れられた。参謀本部は、ソ連の軍備増強の勢いに危機感を持ち、将来の対ソ戦に備えるため、中国側の要望を受け入れてでも中国との戦争は絶対に避けるべきだと考えていたのである。
翌日、風見章が病床にある近衛にこれを伝えると、近衛は「若しよく目的を達し得べしとならば、貴下と共に南京に飛ぶを辞せず。今病臥すれども医師看護師を同行せばよし」と積極的だった。しかし、風見は、蒋介石の統制力、日本側の軍の統制力に不安があるとして、翌日近衛に広田外相の派遣を提案、了承された。
しかし、蒋介石は、今回の事態を中国の存亡の危機とみて強硬姿勢をとり、日本の陸軍部内でも派兵して一撃を与えた方が早期収拾につながるという議論が力を得た結果、7月20日以降、華北での戦闘が本格化した。近衛はその後も秋山定輔の提案により、宮崎竜介(宮崎滔天の息子)を蒋介石のもとに派遣しようとした。しかし、24日、宮崎は「北支の事態かくの如き状態にある際氏等の行動は穏当を欠く」として憲兵に逮捕された。工作は失敗した。
 支那事変と名付ける
その後も近衛は、頭山満を中国に派遣して、蒋介石と会談させることを検討した。しかし、外務省が中国政府との協議のため、元外交官の船津辰一郎を上海に派遣した8月13日、戦火は上海に飛び火した。政府は、8月14日夜から翌日未明にかけての臨時閣議で、派兵と声明発出を決定。15日未明、日本政府は領土的意図はないとしながらも、「全支にいる我が居留民の生命財産の危機に陥るに及んでは、帝国としては最早隠忍その限度に達し、支那軍の暴戻を膺懲し以て南京政府の反省を促す」といういわゆる「暴支膺懲声明」を発して派兵を承認、和平の動きは一旦頓挫した。ただし近衛は8月26日の記者会見で、「長期抵抗とこちらの力を方々にさかせるのが向こうの戦法で、我が国としてはこの術策に陥らぬよう最も警戒している」と述べたように、中国側の戦略も踏まえ、尚早期収拾の必要性は認識していた。
なお、9月2日の閣議でこの戦争を「支那事変」と呼ぶことが決まった。軍事衝突は事実上の戦争に発展したものの、宣戦布告をするとアメリカの中立法の適用を受けてアメリカからの軍需物資の輸入ができなくなり、兵器の原料や動力源をアメリカからの石油や屑鉄に頼っていた日本としては不利になるため、形式上は局地的な武力衝突にすぎない「事変」であるとの方針を取ったことはよく知られている。




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