日中戦争と近衛 ~対中強硬路線の失敗~ |
日中関係については、岡田啓介内閣期の昭和10年10月、広田弘毅外相が、中国か排日運動取締、満州国黙認、赤化防止に同意すれば関係改善を図るという「広田三原則」を打ち出した。しかし中国側は、同年6月から日本の支那駐屯軍が進めていた華北分離工作の中止が先決だとして反発し、日中関係の改善は進まなかった。これに対し、林内閣の佐藤尚武外相は、華北分離工作を再検討する方針を示し、日中関係改善の兆しが現れていた。当然、昭和12年6月の第一次近衛内閣の組閣開始時、中国の各新聞が佐藤外交の継続を希望した。
「東京朝日新聞」6月20日付朝刊の社説「近衛広田外交への待望」は、12日の近衛の記者会見の内容が日本政府の方針であるならば、王外交部長の主張は「接近の可能性が極めて少ない」と近衛の方針の問題性を指摘した。中国は日本への反発を強め、華北親日政権の解消のみならず、広田三原則の撤廃と支那駐屯軍の撤退も日本に要求する方針を取った。それでも中国政府としては、あくまで対等な立場での経済提携を望んだに過ぎない。そもそも、前年12月の西安事件以後、中国では日本に対抗するため、国民党と共産党の提携が進みつつあった以上、中国側の妥協などあり得なかった。
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