日中戦争と近衛
 ~対中強硬路線の失敗~
 


 盧溝橋事件
昭和12年(1937)7月7日、盧溝橋事件が勃発した。日中戦争の勃発である。北京郊外の盧溝橋付近で、演習中の日本の支那駐屯軍に対する中国軍兵舎からの偶発的発砲により小規模な戦闘が発生したのである。
日中関係については、岡田啓介内閣期の昭和10年10月、広田弘毅外相が、中国か排日運動取締、満州国黙認、赤化防止に同意すれば関係改善を図るという「広田三原則」を打ち出した。しかし中国側は、同年6月から日本の支那駐屯軍が進めていた華北分離工作の中止が先決だとして反発し、日中関係の改善は進まなかった。これに対し、林内閣の佐藤尚武外相は、華北分離工作を再検討する方針を示し、日中関係改善の兆しが現れていた。当然、昭和12年6月の第一次近衛内閣の組閣開始時、中国の各新聞が佐藤外交の継続を希望した。
 対中強硬路線復活
しかし近衛は、広田を外相とし、さらに6月12日の記者会見で、「広田内閣時代の三大原則でよい。北支は不侵略主義で武力を用いず経済的発展をする」、つまり不侵略主義は掲げつつも対中政策を広田三原則に戻すと伝えた。事実上の対中強硬路線の復活の明言であった。これに対し中国政府は、王寵恵外交部長(外相)の談話として、経済提携の前提として、改めて華北親日政権の解消を要求した。
「東京朝日新聞」6月20日付朝刊の社説「近衛広田外交への待望」は、12日の近衛の記者会見の内容が日本政府の方針であるならば、王外交部長の主張は「接近の可能性が極めて少ない」と近衛の方針の問題性を指摘した。中国は日本への反発を強め、華北親日政権の解消のみならず、広田三原則の撤廃と支那駐屯軍の撤退も日本に要求する方針を取った。それでも中国政府としては、あくまで対等な立場での経済提携を望んだに過ぎない。そもそも、前年12月の西安事件以後、中国では日本に対抗するため、国民党と共産党の提携が進みつつあった以上、中国側の妥協などあり得なかった。

 対中強硬路線の失敗
要するに、近衛の対中方針強硬化による日中関係の急激な悪化を背景として、盧溝橋事件が起きたのである。対中方針の転換は、「無尽蔵な中国の天然資源を、資本や技術は日本が供給し、支那側の労力と協同してその開発にあたる」という「日支の経済提携」を提唱し、日中提携の必要性を名目に、事実上の日本の一方的な経済進出を主張し、華北権益獲得工作を正当化していた近衛の持論からすれば当然である。記者会見にもあるように、近衛本人としては戦争を望んでいるわけではなく、持論を展開するための強硬姿勢だったのだが、日中対立を深刻化させたという意味では、明らかな失政であった。




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