文麿の学業成績は優秀で、学習院中等科時代の明治39年に、幼少時の近衛の世話をしていた小川きみに宛てた手紙によると、同級生45人中席次は9番目、四段階評価(甲乙丙丁)で、甲が9つ、乙が5つ、丙や丁はない。作文や英語が乙なのは、英語の文献を読みこなし、多くの論説や随筆を書いた近衛の後年の活躍からすればいささか意外である。また、学校ではスポーツにも積極的であったという。なお、中等学科とは当時の中学校に相当する。
文麿は、中等科時代について、父篤麿の死後、政治資金のための多額の借金が残り、厳しい取り立てにあったことなどを原因として、「それまでは何も知らずに育ってきた私には、一種の社会に対する反抗心が起こり、トルストイ物などを読み漁る社会に対して日上の多い憂鬱な青年であった」とのちに回想している。
秀麿の回想によれば、近衛は中等学科の末期には妹弟たちに、「僕達がこうして毎日を温かい家の中に安心の生活ができるのに、世の中の一隅には、住むに家もなく、三度の食事にも事欠く人たちも居るのだ」と話しかけたことがあったという。文麿に、社会問題への関心が芽生えていたことがわかる。
また、篤麿死後の一時期、家計が以前よりも相対的に苦しかったことは、文麿の一高時代、妹武子がピアノを習いたくても家計を理由になかなか習えず、文麿がピアノ教師を連れてきてくれてようやく習えるようになったという武子の回想からも裏付けられる。
借金取りから近衛家の文化財や資産を守ったのは、篤麿の下に集まった右翼浪人たちだった。秀麿の回想によれば、頭山満が、「貴殿たちの御出資は、大変国家のために役立ちました。私からも故人に代わって御礼申します」と言って借金取りを追い払い、日露戦争の戦勝後も、頭山はじめ篤麿の側近だった浪人たちは、篤麿の霊に戦勝の報国に来たという。さらに五百木良三や横矢重道など、やはり篤麿の側近だった右翼浪人たちは、篤麿死後も必ず近衛家に集まっていたという。
こうした右翼浪人たちは日記や書簡をまとまった形で残したいないため、近衛との関係を一次史料で詳細に裏付けることは難しいが、断片的に残っている史料から、かなり密接な関係があったと判断できる。
結局、近衛家の文化財や財産は守られ、藤原道長の「御堂関白記」を含む、近衛家伝来の文化財を収蔵管理する施設として、文麿は昭和13年(1938)に財団法人陽明文庫を京都に設立、現存している。 |