貴族政治家としての歩み ~パリ滞在~ |
パリでは、4月28日の総会を傍聴し、フランス首相クレマンソー、アメリカ大統領ウィルソン、イギリス首相ロード・ジョージが一同に会するという先妻一隅の機会に遭遇し、内心は愉快であったが、国際連盟規約の修正という形で日本が提案した人種平等安が否決された上で国際連盟規約が可決される状況を目の当たりにし、「嗚呼、国際連盟はかくの如くにして遂に此世に現れたり」と嘆いた。 近衛は、パリ滞在中に雑誌「太陽」8月1日号に寄せた論文「巴里より」のなかで、今日は国民外交の時代であり、国民外交は公開外交なので、「実力ある国民は外交に勝ち、実力無き国民は外交に敗れる」としたうえで、「人類はいまだ正義人道のみ活きて国家的利害打算を超脱する迄に進歩」していない以上、正義人道の美名に空頼みして力の養成を忘れてはならないと主張している。近衛は、パリ講和会議において人種平等案が否決されたことから、国民外交の時代にあっては、国民全体の力量の向上が日本の生存権を国際社会に認めさせるための前提条件だと考えたのである。
そうした議論は近衛だけでなく、講和会議における日本全権団の影の薄さは論壇で激しい批判の対象となり、国民外交の推進が叫ばれていくが、これは実質的に国家が国益の追及を国民の支援を得て行うということを意味した。 こうした流れの中で、近衛も自分の欧米体験をまとめた初の著書「戦後欧米見聞録」を大正9年6月に外交時報社から出版した。全体の論旨は、英米中心の国際秩序の中で日本が発言権を得るには、国民の自覚と欧米諸国を参考とした各方面での改革が必要だというものであった。 こうした中で、アメリカの提唱で大正10年(1921)11月から始まったワシントン会議にも日本も参加し、主力艦の制限を定めた海軍軍縮条約、太平洋の現状維持を定めた四ヶ国条約、中国の門戸開放と機会均等を定めた九ヶ国条約などに日本も加盟し、国家として協調外交路線をとることを明確にした。その後、日本は昭和3年に領土拡大のための軍事力行使を禁じる不戦条約にも加盟する。つまり、自国の生存を確保するために、他国を犠牲にしてでも戦争に訴えてよいという近衛の「英米本位の平和主義を廃す」の認識は通用しない国際環境が形成されていったのである。
当時、中国における利権回収運動が盛り上がっていたことをふまえると、この決議は日本の生存のために中国権益は必要だとして、その維持を政府に求めたものであった。まさに種稲秀司氏の「死活的利益」という議論である。満州事変以後、日本で盛んに主張されるこの考え方は、すでにこの時点で国家的な合意を得ていたのである。そしてこの決議の筆頭発議者である以上、近衛もこれに同意していたことは間違いがない。 そしてその後も近衛の意見が変わらなかったことは、昭和4年(1929)4月、東亜同文書院新入生への訓示で、日本は土地が狭く、経済的の方面のみから見ても真に行き詰まりの状態にあるので、「広大無辺の天然資源を有し、又無限の購買力を有する支那」と提携すべきだと述べたことからもわかる。 |