貴族政治家としての歩み
 ~パリ滞在~
 


 孫文と二度目の会見
近衛は、西園寺公望に同伴して大正8年1月日本を出発。3月にパリに着き、すでに始まっていた講和会議に参加、6月末の調印式後は全権団と離れてイギリスやアメリカを巡遊し、11月に帰国した。往路の上海では、「ミラード・レビュー」の記事を読んだという孫文と二度目の会見をしたという。
パリでは、4月28日の総会を傍聴し、フランス首相クレマンソー、アメリカ大統領ウィルソン、イギリス首相ロード・ジョージが一同に会するという先妻一隅の機会に遭遇し、内心は愉快であったが、国際連盟規約の修正という形で日本が提案した人種平等安が否決された上で国際連盟規約が可決される状況を目の当たりにし、「嗚呼、国際連盟はかくの如くにして遂に此世に現れたり」と嘆いた。
近衛は、パリ滞在中に雑誌「太陽」8月1日号に寄せた論文「巴里より」のなかで、今日は国民外交の時代であり、国民外交は公開外交なので、「実力ある国民は外交に勝ち、実力無き国民は外交に敗れる」としたうえで、「人類はいまだ正義人道のみ活きて国家的利害打算を超脱する迄に進歩」していない以上、正義人道の美名に空頼みして力の養成を忘れてはならないと主張している。近衛は、パリ講和会議において人種平等案が否決されたことから、国民外交の時代にあっては、国民全体の力量の向上が日本の生存権を国際社会に認めさせるための前提条件だと考えたのである。
 国民外交の推進
近衛は5月に、当時フランス滞在中の陸軍少佐小林順一郎の案内で、第一次大戦の西部戦線の戦跡を西園寺らと共に訪問した。惨状はなお生々しく、ドイツ軍の蛮行の被害にあった住民の話を聞くこともできた。近衛はこのような惨状を与えたドイツの罪は深いとしながらも、フランスがもう少し自力で予防策を講じていればこのような惨憺たる結果にはならず、しかも国際連盟は従来の国際法程度にしか頼りにならないとして、「日本国民よ恃むべからざるものを恃まずして先ず自らの力を恃む」ことが、「荒廃を極めたる仏国戦場が最も雄弁に最も適切に我々を戒めつつある教訓」と主張した。近衛は新しい国際秩序への不満から、戦場の悲惨さの教訓として、平和主義ではなく国家主義を選び取り、それを日本国民にも要望したのである。
そうした議論は近衛だけでなく、講和会議における日本全権団の影の薄さは論壇で激しい批判の対象となり、国民外交の推進が叫ばれていくが、これは実質的に国家が国益の追及を国民の支援を得て行うということを意味した。
こうした流れの中で、近衛も自分の欧米体験をまとめた初の著書「戦後欧米見聞録」を大正9年6月に外交時報社から出版した。全体の論旨は、英米中心の国際秩序の中で日本が発言権を得るには、国民の自覚と欧米諸国を参考とした各方面での改革が必要だというものであった。
こうした中で、アメリカの提唱で大正10年(1921)11月から始まったワシントン会議にも日本も参加し、主力艦の制限を定めた海軍軍縮条約、太平洋の現状維持を定めた四ヶ国条約、中国の門戸開放と機会均等を定めた九ヶ国条約などに日本も加盟し、国家として協調外交路線をとることを明確にした。その後、日本は昭和3年に領土拡大のための軍事力行使を禁じる不戦条約にも加盟する。つまり、自国の生存を確保するために、他国を犠牲にしてでも戦争に訴えてよいという近衛の「英米本位の平和主義を廃す」の認識は通用しない国際環境が形成されていったのである。
 死活的利益
近衛は、大正11年3月に東亜同文会の副会長に就任し、昭和元年5月から同6年12月まで東亜同文書院の院長も兼任した。明らかに創設者の長男であることの影響である。その関係から中国問題についても発言するようになった。大正12年2月19日の貴族院本会議において、近衛を筆頭発言者とし、「国際政局における帝国の地位及び其の責任の重大なると、国民の経済的生存の意義とに鑑み、対外国策を確立し東洋平和の基礎を強固ならしむ」べしと主張する「外交に関する決議」が全会一致で可決され、その場で加藤友三郎首相も賛成した。蜂須賀正招による趣旨説明中に、「我が国民の自存自衛の経済的発展に資するの諸国又諸地方諸地域とは、常に密接にして特殊なる関係を持続」して「東洋永遠の平和を確保する」という一節があり、文脈上「諸国又諸地方諸地域」に中国が含まれていることは疑いない。
当時、中国における利権回収運動が盛り上がっていたことをふまえると、この決議は日本の生存のために中国権益は必要だとして、その維持を政府に求めたものであった。まさに種稲秀司氏の「死活的利益」という議論である。満州事変以後、日本で盛んに主張されるこの考え方は、すでにこの時点で国家的な合意を得ていたのである。そしてこの決議の筆頭発議者である以上、近衛もこれに同意していたことは間違いがない。
そしてその後も近衛の意見が変わらなかったことは、昭和4年(1929)4月、東亜同文書院新入生への訓示で、日本は土地が狭く、経済的の方面のみから見ても真に行き詰まりの状態にあるので、「広大無辺の天然資源を有し、又無限の購買力を有する支那」と提携すべきだと述べたことからもわかる。




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