貴族政治家としての歩み
 ~英米本位の平和主義を廃す~
 


 第一次大戦の講和会議
欧州におけるイギリス・フランス・ロシアの三国協商とドイツ・オーストリア・トルコの三国同盟の覇権争いは、ついに大正3年7月勃発の第一次世界大戦に発展した。日本は中国進出を進めようと、日英同盟を利用してイギリス側に参戦し、悪名高い対華二十一ヶ条要求を中国に突き付けて、その大半を認めさせた。のちにアメリカもイギリス側に参戦し、三国同盟対連合国という図式になったが、大正6年11月に、ロシア革命が勃発してロシアは同盟から離脱した。大正7年1月11日、5年以上にわたった第一次世界大戦は、ドイツに対する連合国側の勝利という形で終結した。そして、フランスのパリで講和会議が開かれることとなり、日本は戦勝国の一員として会議に参加する事となった。
日本全権団の人事は11月27日に発令され、全権委員は元老西園寺公望、牧野伸顕元外相ほか計5人。随員には、外交官の松岡洋右、吉田茂、有田八郎、重光葵、陸軍の畑俊六、海軍の野村吉三郎など、後に昭和期に政府や軍の高官となる人々が多数含まれていた。
 日本の生存権を主張
こうした中近衛は、「日本及日本人」大正7年12月15日号に論文「英米本位の平和主義を廃す」を発表した。初の公刊論文である。この中で近衛は、大戦後の世界では、民主主義や人道主義の思想がますます盛んで、これを国際的に見れば「各国民平等生存権の主張」となり、このような平等感は人間道徳の永遠普遍なる根本原理であるが、日本の論壇が、無条件的無批判的に英米本位の国際連盟を称賛し、これを正義人道に合致すると考えているのは嘆かわしいとして、「日本人の正当なる生存権を確認し、此権利に対し不当不正なる圧迫をなすもののある場合には、飽く迄も之と争ふの覚悟なかるべからず」と、平和より生存権の確保を優先すべきだと述べている。
そして、敗戦国ドイツについて、すべての後進国は獲得すべき土地が無く、膨張発展すべき余地を見出すことができない状態にあるので、「吾人は彼が事ここに至らざるを得ざりし境遇に対しては特に日本人として深厚の同情なきを得ず」とドイツに共感を寄せた。しかし、国際協調自体は正義人道にかなっているので、日本はその中で生存権を主張すべきだと結論付けている。要するに、英米と同程度に日本の生存権が認められなければ、正義人道に基づく真の国際協調は実現しないと主張したのである。
この論文に、アジア主義や、西田幾太郎の影響による西洋哲学の知識、戸田海市京大教授が当時唱えていた「国民生存権論」の影響がみられることは明らかである。アジア主義についていえば、周囲のアジア主義者たちの影響が明らかだ。また、この論文が掲載された「日本及日本人」は、対外硬派の流れをくむ政教社の雑誌である。まだ論壇での名声を持たない近衛は、縁故のある雑誌に原稿を持ち込んだものと考えられる。そして、この論文発表後に近衛がパリ講和会議の西園寺の随員となったこと、西園寺や政界に対し、自分が講和会議に参加するに足る知識を持っていることを示すために書いたと考えられる。
 英字雑誌に転載
発表後、この論文はメディアに注目された。頭本元貞が発行していた週刊英字新聞「ヘラルド・オブ・アジア」1919年1月4日号に、「No Anglo-American Peace」と題して英訳転載されたのである。頭本は「英文報国」、すなわち日本政府の政策の対外広報に尽力したジャーナリストであった。さらにその記事が上海発行の親中反日系英字週刊誌「ミラード・レヴュー」1919年1月11日号の社説欄で言及された。
「ミラード・レビュー」は、近衛論文の英訳の一部を引用しつつ、同論文は講和問題についての日本の方針に関する日本人の論説の中で最も興味深いとし、筆者の近衛が全権団に加わっていることはさらに興味深いとしている。
さらに敗戦国ドイツに共感を寄せたことに対し、「ドイツが正義人道の敵であるという連合国やアメリカの意見を受け入れていない」と批判している。日本がこうした反英米路線をとることに多大な警戒感を示したのである。
いずれにせよ、この論文は、講和会議に臨む日本の真意を簡潔かつ的確に表現した論文として認められた。つまり、近衛はこの処女論文において、知識人としての能力の高さを示したのである。そして、大正期を扱う日本外交史や日本外交思想史の研究では、現在に至るまで必ずと言ってよいほど言及される論文となっている。




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