貴族政治家としての歩み ~英米本位の平和主義を廃す~ |
日本全権団の人事は11月27日に発令され、全権委員は元老西園寺公望、牧野伸顕元外相ほか計5人。随員には、外交官の松岡洋右、吉田茂、有田八郎、重光葵、陸軍の畑俊六、海軍の野村吉三郎など、後に昭和期に政府や軍の高官となる人々が多数含まれていた。
そして、敗戦国ドイツについて、すべての後進国は獲得すべき土地が無く、膨張発展すべき余地を見出すことができない状態にあるので、「吾人は彼が事ここに至らざるを得ざりし境遇に対しては特に日本人として深厚の同情なきを得ず」とドイツに共感を寄せた。しかし、国際協調自体は正義人道にかなっているので、日本はその中で生存権を主張すべきだと結論付けている。要するに、英米と同程度に日本の生存権が認められなければ、正義人道に基づく真の国際協調は実現しないと主張したのである。 この論文に、アジア主義や、西田幾太郎の影響による西洋哲学の知識、戸田海市京大教授が当時唱えていた「国民生存権論」の影響がみられることは明らかである。アジア主義についていえば、周囲のアジア主義者たちの影響が明らかだ。また、この論文が掲載された「日本及日本人」は、対外硬派の流れをくむ政教社の雑誌である。まだ論壇での名声を持たない近衛は、縁故のある雑誌に原稿を持ち込んだものと考えられる。そして、この論文発表後に近衛がパリ講和会議の西園寺の随員となったこと、西園寺や政界に対し、自分が講和会議に参加するに足る知識を持っていることを示すために書いたと考えられる。
「ミラード・レビュー」は、近衛論文の英訳の一部を引用しつつ、同論文は講和問題についての日本の方針に関する日本人の論説の中で最も興味深いとし、筆者の近衛が全権団に加わっていることはさらに興味深いとしている。 さらに敗戦国ドイツに共感を寄せたことに対し、「ドイツが正義人道の敵であるという連合国やアメリカの意見を受け入れていない」と批判している。日本がこうした反英米路線をとることに多大な警戒感を示したのである。 いずれにせよ、この論文は、講和会議に臨む日本の真意を簡潔かつ的確に表現した論文として認められた。つまり、近衛はこの処女論文において、知識人としての能力の高さを示したのである。そして、大正期を扱う日本外交史や日本外交思想史の研究では、現在に至るまで必ずと言ってよいほど言及される論文となっている。 |