貴族政治家としての歩み
 ~貴族院議員~
 


 貴族院議員となる
近衛は、満25歳を迎えた大正5年(1916)10月、貴族院例の規定により、京大在学のまま貴族院議員となった。大正7年、第40回帝国議会貴族院において、旧韓国貨幣に関する法律特別委員会の委員長となり、2月9日の貴族院本会議で委員会の審議経過を報告した。これが近衛の帝国議会における初演説で、実質的な政界デビューとなった。27歳にして議会の委員長を務めるのは異例で、華族社会が近衛に寄せる期待の大きさがうかがえる。以後近衛は、数多くの法案審議で委員長を務めていく。
院外における初の公的な政治活動は、大正7年2月13日に華族会館で行われた対支問題研究会への参加である。この会は、大木遠吉、寺尾亨、今井嘉幸が主催し、近衛の他に叔父津軽英麿、杉田定一、戸水寛人、安達謙蔵、小川平吉、副島義一ら百余名の政治家、法学者などが集まった。会の目的は、「支那の紛争は支那自身の為のみならず、日本帝国の為、ひいては東洋永遠の平和の為に之を取らざるところ(中略)支那問題の解決、換言すれば日支両国の親善提携は益々必要(中略)此のときに当たって政党政派の別なく国民として公正なる興論を喚起し、同問題の為に活動するを要す」というものだった。中国の安定のため日本が積極的に活動すべきだという世論を喚起すること、言い換えれば政治の民主化の進展を背景に、国民規模でアジア主義を推進していこうというのがこの会の目的であった。小川はもちろん、寺尾も対露同志会の参加者であり、近衛がアジア主義思想と深いつながりを持っていたことが良く分かる。
 内務省勤務
議会終了後の4月19日、近衛は内務省事務嘱託となった。近衛は、大学卒業後、新渡戸稲造に進路の相談をしたところ、後藤新平内相に紹介してくれたためだと回想している。新渡戸は明治34年から36年にかけて台湾総督府に努めたが、その当時後藤は台湾総督府民政長官で上司と部下の関係にあったから、不思議ではない。
一方、大正7年4月29日付で内相辞任直後の後藤に宛てた西園寺公望の書簡に、「先立っては近衛氏に関し御無理申し上げ試み候ところ、早速御採用下され感謝の至り」とあるので、西園寺の勧めと紹介があったことは確実である。ただし、これは新渡戸の紹介もあった可能性を否定するものではない。
 勤務ぶり
近衛の勤務ぶりは友人たちの手紙でわかる。5月20日付の浅見審三宛ての書簡では、毎日出勤しているが、「議会閉会中は先ずこんなことをしてるより外致し方なく」と退屈な様子で、大蔵省に就職した石渡荘太郎など一高時代の友人と会えるのだけが楽しみだという趣旨である。なお、この手紙には、「先日徴兵検査を受け候処丁種免疫にてまんまと逃れ候。これにて多年の主にも全部取り除かれ候」という一文があり、徴兵検査を受けたものの、公爵であるためか大学卒業生であるためか不明だが、事実上兵役を免除されて安心したことも書かれている。




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