生い立ち
 ~家系~
 


 名門藤原家がルーツ
近衛文麿は、明治24年(1891)10月12日、公爵近衛篤麿の長男として生まれた。近衛が生まれた家は借家で、旧九段会館の向かい側にあったという。生母は近衛衍子(旧金沢藩主前田慶寧の五女)である。その後自宅は目白へ移っている。
近衛家は平安時代末期の関白藤原忠通の長男基実を始祖とする。基実の六代前は藤原道長である。道長は天皇家の姻戚として、30年余りにわたって内覧(関白に相当)摂政、さらに太政大臣を歴任した、平安摂関政治を代表する政治家である。摂政とは天皇代行のことで、本来は皇族が務めるのだが、9世紀中ごろからは藤原家が独占した。関白は天皇の最高補佐官に相当する。
さらに先祖をたどれば、大化の改新の中心人物の中臣鎌足までさかのぼる。彼は藤原家の創始者であり、不比等の代でその権勢を不動のものとした。藤原家は忠通の頃に近衛家と九条家に分かれ、のち近衛家から鷹司家が分立し、九条家からも二条家と一条家が分立。この五家で摂政・関白を独占し続けたので五摂家と言われて尊重された。近衛家は五摂家筆頭と言われたことがある。
藤原家に続き、近衛家も皇室と姻戚関係にあり、戦国末期には後陽成天皇の子供を養子として迎えたほか、近世期には中御門天皇と桃園天皇の側室も出している。篤麿の父忠房も幕末に左大臣を務めたが、明治6年に36歳の若さで死去した。しかし、忠房の父で、文麿の曽祖父にあたる忠煕は文化5年(1808)に生まれ、左大臣や関白を歴任、明治31年に死去するまで91歳の長寿を保った。近衛家は皇室に次ぐ由緒を持ち、かつ皇室とも関係が深い命家だったのである。
 文麿の名前の由来
文麿の名付け親は曽祖父忠煕である。近衛の出生直前、篤麿邸の庭に亀が出てきたのを瑞兆と考えた忠煕が、中国古典の用例をふまえて「亀」を「文」と読み替え、父篤麿の「麿」を合わせて名前とした。矢部貞治氏は、最初「アヤマロ」と訓じたものの語呂が悪いので「フミマロ」と読むようになったとしているが、近衛自身は、語呂の悪さは最初から分かっていたので「フミマロ」と訓じられたとしている。
父篤麿は文久3年生まれ。明治13年(1880)に大学予備門を中退、同17年に公爵となり、翌18年に欧州に留学、主にドイツで国家学を学んだ。明治22年の大日本帝国憲法発布後、貴族院議員に任じられた。公爵は世襲の終身議員とされていたためである。篤麿は帝国議会開院直前の23年9月に帰国した。妻衍子は産褥熱のため、文麿出産直後の10月20日に死去した。篤麿は翌25年、衍子の実妹貞子と再婚した。貞子は、明治30年に武子、31年に秀麿、33年に直麿、35年に忠麿を出産、昭和20年(1945)敗戦の日に死去した。文麿が貞子が実母ではないことを知ったのはいつなのか定かではないが、概ね文麿は貞子に優しく接していたようだ。
 文麿の家族たち
近衛には3人の弟と1人の妹がいた。
妹の武子は、のちに薩摩藩出身の元老大山巌の息子で、アマチュア考古学者として知られた大山柏の妻となった。
秀麿は昭和前半期の日本を代表するオーケストラ指揮者の一人として知られている。少年期から西洋芸術音楽に興味を持ち、大正11年(1922)に東京帝国大学中退後、欧州への自費留学を経て、昭和48年に亡くなるまで内外で活躍した。昭和元年(1926)に新交響楽団(NHK交響楽団の前身)を創設したほか、作編曲家、著述家としても業績を残した。なお秀麿は、分家して子爵となり、昭和7年から12年まで貴族院議員も務めたが、貴族院の議事録や新聞報道を見る限り、議員としての事績は皆無に等しい。
直麿は早くから文学や音楽の世界に入り、新交響楽団のホルン奏者となったが、昭和7年7月に病気のため32歳の若さで死去。忠麿は京都大学哲学科卒業後、水谷川男爵家に養子に入り、林銑十郎内閣の河原田稼吉内相の秘書官、貴族院議員などを経て、戦後は春日大社の宮司を務め、昭和36年に死去した。学生時代には京大オーケストラのオーボエ奏者をつとめ、春日大社の宮司時代には、ホルンを用いた奈良公園名物の鹿寄せを創始した。全体として文化的な香りのする家庭像がうかがえる。




TOPページへ BACKします