近衛の住居については、もともと東京には父の代からの目白の家があり、遅くとも大正7年に内務省事務嘱託となるまでには、ここに本拠を戻していたはずである。大正11年にこの自宅について自分たちの住む部分を残して住宅地として売却し、近衛町と名付けられた。その後、貴族院議長官舎を経て官庁街に近い麹町区三番町に移った。この家は第一次内閣の首相就任時の新聞報道に登場する。
首相就任間もない昭和12年11月には、東京郊外の荻窪にあった東京帝大医学部名誉教授入沢達吉の自宅を譲り受けて移転した。この邸宅は建築家として当時から著名な伊藤忠太の設計により昭和3年に建てられ、現存している。この家はのちに元老西園寺公望によって、「荻外荘」と名付けられた。この家も第二次近衛内閣組閣の舞台となったため、新聞報道やニュース映画に登場する。
なお、荻外荘あ東京杉並区が取得し、平成27年3月から敷地の一部が荻外荘公園として開放されている。
別荘は軽井沢に持っており、これも新聞雑誌やニュース映画に登場するが、大正金は静岡県興津にも借家の別荘があった。昭和8年9月には神奈川県鎌倉にも別邸を構えている。
また、京都嵐山には元近衛別邸と呼ばれる建物が、現在は湯豆腐を食べさせる料理屋として営業している。その他、愛人用の別邸もあった。
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