家庭を大事にした印象の強い近衛だが、その反面、他の女性関係もあった。そのことは、大正期の人物評論に「柳暗花明に浅酌するの趣味も相当深く心得ている」と書かれているように公知の事実だった。その中で名前がわかっているのは二人である。
一人は、京都祇園の芸鼓だった海老名菊である。海老名は、長男文隆が生まれて間もない大正5年に祇園に遊びに来た近衛と知り合った。学生でありながら祇園で遊べたのであるから、当時は相当な財力があったことがわかる。翌年、近衛が活動の拠点を東京に移すと、海老名も東京の目白本邸近くの借家に移り、大正7年に女児を出産したが、近衛が多忙となったため、翌年京都に戻る形で関係は終わった。女児は近衛の紹介で他家の養女となったという。
二人目は、山本ヌイである。新橋芸者だった山本は、大正11年ごろに近衛を含む貴族院議員の宴席に出て知り合い、近衛の寵愛を受けるようになり、昭和4年に芸者をやめて近衛の愛人となった。山本が連れてきた娘はのちに大学教員に嫁ぎ、昭和6年に近衛が生ませた娘はのちに近衛の弟が養子入りした水谷川家の養女となった。山本は、近衛の世話で東京上野の不忍池の畔、横山大観の邸宅の近くに住居を構えた。近衛はしばしばこの家で子供たちと遊ぶなどしてくつろいでいた。太平洋戦争期に入り、山本は東京市内の代々木を経て、近衛が代議士桜井平五郎から借り受けた神奈川県小田原の入生田の借家に移ることになる。
こうした女性関係は家族にも知られており、娘の昭子の回想によれば、娘たちに「自分の浮気の相手の女たちの話」をしたり、新橋の料亭に連れていき、帰りの自動車の中で「男がなぜああいうところへ行くか、よく考えてごらん」と言ったという。こうした女性関係は正妻の千代子を悩ませた。長女の回想によれば、大正末にはその心労がもとで千代子が体調を崩し、生死をさまよったこともあった。
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