日清戦争と小村
 ~露館播遷~
 


 露館播遷
大事件の伏線は、金弘集内閣による近代的な政策の断行にあった。12月30日、内閣は断髪令と新暦(太陽暦)の採用を発表した。だが、伝統的な習俗や慣習とは異なる西洋式のやり方を、突然押し付けられたと感じた民衆からは怒りの声が上がった。特に、親からもらった体に傷をつけることは「考」に反すると考え、長髪と長髭を実践していた儒者達の反発は極めて強く、大規模な反乱や抗議の自殺が続発する。
各地方の反乱を鎮圧する目的で、日本兵や親衛隊が派遣された。一方、ソウルでは、日本軍が手薄になった隙にロシア兵が増強されていた。ここで起きたのが「露館播遷」である。露館播遷とは、明治29年(1896)2月11日、親露派の政治家とロシア兵の保護のもとに、高宗が王宮からロシア公使館に遷った事件である。また、国王に詔勅によって暗に批判された金弘集ら親日派の閣僚たちは、激昂した民衆たちによって惨殺され、代わって親露派内閣が成立した。
この事件によって、朝鮮におけるロシアの影響力は格段に強まり、日本の勢力は著しく減退した。劣勢を挽回しようとする努力は、水泡に帰したのである。
小村にとって、露館播遷は痛恨の出来事だった。日本公使館では、普段冷静な小村が怒りを表情に出していた。後年、この事件に触れようとした書生の桝本卯平が、当時の心境を聞き出そうとすると、いきなり殴り倒され、怒鳴りつけられたという。いかに、露館播遷という事件が、小村の心に深い傷跡を残したかがうかがえる。
 失地回復へ
露館播遷と金弘集内閣の崩壊は、確かに大事件であった。しかし小村はいつまでも悔やんでいるわけにはいかなかった。どん底まで落ちた日本の権威を回復し、高宗を速やかに王宮に戻す必要があったからである。
事件直後の小村は、朝鮮在留の日本人によるロシア人や朝鮮人への報復を危惧していた。しかし、そのような行動は起きず、ロシアがこれを機に兵力で挑発することもなかったので、日露間での朝鮮問題解決には「一時の猶予」があると考えた。そこで小村は、2月18日に共同で朝鮮独立の担保と内政の監督を行うことを基調とするロシアとの協議を、西園寺公望外相臨時代理に提案した。
小村にとって幸運だったのは、朝鮮政界の混乱である。ロシア公使館では、高宗に従った親露派とそのほかの政治家たちの対立が早くから顕在化し、王宮に残った勢力にも新政権派と前政権派が争っていた。この事態を収束するために、帰還を勧める政治家も少なくなかったが、度重なる王宮襲撃に身の危険を感じた国王は、なかなか動こうとしなかった。
また、高宗の滞在が続く状況は、ロシアにジレンマをもたらしていた。国王を身近に置くことで、影響力は維持できる。だが一方で、国王につき従う人々が大量に入ってきたことは、公使館の業務に支障を与えるようになっていた。ロシアにとって、高宗滞在の長期化は、厄介になりつつあったのである。
 ロシアとの駆け引き
朝鮮とロシア双方から、露館播遷が望ましくないという雰囲気が生じてきたのは、小村にとって追い風となった。2月24日、小村の進言を受けた西園寺が、国王の王宮帰還と公平な人々からなる新政府をつくるように日露両国で促す提案を、ヒトロヴォー駐日ロシア公使に打診する。
日本案に同意したヒトロヴォーは、3月2日に、本国政府からの指示によって、両国の公使館や電信線を保護するための措置についても話し合うべきだとする新しい提案を示した。朝鮮を巡って日本と衝突するつもりがなかったロシアは、何らかの取り決めを日本と結ぶことを欲していたのである。
西園寺の訓令に基づき、小村は現地で細部を詰める作業を担当した。すでに政府間では合意が成立していたとはいえ、一つだけ面倒な事があった。
3月中旬、ヒトロヴォーがロシアに一時帰国することになり、シペイエル駐朝公使が駐日代理公使に就くと、ヴェーベル前駐朝公使が交渉担当者となった。1月8日まで公使の地位にあったヴェーベルは、前年11月28日のクーデター未遂事件にも関わった「反日派」で、高宗とも極めて親しかった。
高宗は、王妃である閔妃を殺されたことで日本に強い恨みを抱き、ロシアに顧問官や軍事教官を依頼して庇護を仰いでいた。「親露反日」的な国王と関係の深いヴェーベルとの交渉は、難航することが予想された。




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