日清戦争と小村 ~駐朝公使時代~ |
事件は、対朝鮮政策の混乱から生じていた。日清開戦直前、朝鮮で政権を転覆させたものの、日本主導の内政改革がうまく進まなかったため、明治27年(1894)10月25日、元老の井上馨が駐朝公使として赴任した。井上は、朴泳考(パクヨンヒョ)徐光範(ソグアンボム)らの「親日」的な開化派を閣僚に加えただけでなく、約40名の日本人顧問を登用させて、改革を実行しようとした。また、兵士や官吏への給料が払えなくなるほど悪化していた朝鮮政府の財政状況を救うために資金を融資しようとした。 だが、民間からの借款はうまくいかず、政府による300万円の貸付は、日本銀行券の使用を渋る朝鮮側の抵抗に遭っていた。さらに、三国干渉は朝鮮での日本の威信を著しく低下させた。 改革が進まない井上は、翌年6月6日に一時帰国したが、ここで政変が起こる。日本の影響力が強まっていることを嫌った高宗が、内部大臣の朴泳考を辞任させ、7月8日に朴が日本に亡命したのだ。その上、イギリス、アメリカ、ロシア、ドイツは、日本の過度な干渉に抗議したため、井上の内政改革は失敗に終わった。 そこで8月17日、井上に代わって駐朝公使になったのが三浦梧楼である。三浦は「外交の素人」を自任する予備役陸軍中将だったが、盟友である貴族院の谷干城は、干渉しすぎて失敗した井上の後には、政治的経験が乏しい三浦がかえって適任だろうと考え、彼を推薦したのだった。ところが、この三浦が大事件を起こす。
日本政府は国際問題に発展することを恐れた。そこで、事件を調査するために派遣したのが、政務局長の小村である。外務省の対応は迅速だった。小村は事件の翌9日に命令を受け、10日に東京を出発し、15日にはソウル入りする。直ちに調査に着手した小村は、事件の経緯を把握し、その結果、17日に三浦は公使を解任され、日本に召喚された直後に逮捕される。 また、安達らの実行犯も逮捕されただけでなく、関与が疑われた50名近い日本人が朝鮮から退去することを命じられた。ただし、広島地方裁判所で審理された結果、1896年1月29日に、三浦らは証拠不十分で無罪となり、釈放されている。三浦はその後、学習院長や貴族院議員となり、安達は内相や逓相等を歴任する大物政治家になった。 実は、調査を担当した小村も、事件関係者には同情的であった。彼は、三浦や安達は私心があってやったわけでも、悪事と思ってやったわけでもないと考え、過酷な処分をする事には内心反対していた。実行者や関与が疑われた者を国外退去にしたのも、ロシアに出兵の口実を与えないためだったという。 隣国の王妃を、自国の公使が殺害する大事件に際しても、小村の対応は冷徹だった。国際政治の世界に倫理は持ち込まず、あくまで自国民の保護と他国からの干渉を排除することのみを考えて行動していた。国益の拡張や安全保障に何よりも重きを置く、帝国主義の申し子のような小村の行動は、この後も彼の外交人生でぶれることなく貫かれてゆく。
だが、公使に就任したことを喜んでいられる情勢ではなかった。10月30日に訓練隊は解散させられた。さらに、11月には儒者を指導者とする義兵と呼ばれる人たちによる反日蜂起も始まり、日本人の殺害や襲撃を行うようになっていた。また、井上・三浦公使時代の干渉政策によって、各国公使からも厳しい目が注がれていた。小村は、四面楚歌の状態だったのである。 日本政府も、この逆境を挽回しようと手は打っていた。まず井上元公使を特派大使として10月31日から11月5日まで派遣し、政府が事件に無関係なことを強調するとともに、日本人が関与したことを遺憾とした。 小村は、金弘集内閣を守ることに全力を傾けた。この時期、王妃暗殺事件という暴挙で成立した親日派の政権を倒すために、親露派・親米派の政治家たちによってクーデターが計画されていた。だが、訓練隊の代わりに作られた親衛隊に接触して、事前に情報を入手した小村は、親衛隊と協力して200名ほどの資格の王宮侵入を阻止し、11月28日の夜中に決行されたクーデターを未遂に終わらせている。 こうして公使就任後、最初の危機を乗り越えた小村だが、平穏は訪れなかった。彼には、もっと大きな事件が待ち受けていたのである。 |