日清戦争と小村
 ~下関条約締結~
 


 講和条約意見書提出
帰国直後の明治27年(1894)11月28日、小村は外務省政務局長に任命された。つい1年前までは格が落ちる翻訳局長だったが、この間の清国での活躍が認められた出世である。
政務局長としての大仕事は、日清戦争の講和だった。戦争は、各地での連戦連勝によって日本の勝利に終わった。戦争中に再蜂起した朝鮮の反乱軍も鎮圧した。問題は、日本にいかに有利な講和条約を結べるかに移っていた。
講和交渉は、明治28年3月から、日本側全権が伊藤と陸奥、清国側全権が李鴻章によって下関で開始された。小村は直接講和交渉にかかわってはいない。だが、講和条件に関する意見書を陸奥に提出していた。
この意見書で最も力点が置かれていたのは、清国における日本の通商特権の拡大である。小村は意見書の冒頭で、日本の工業品が著しい進歩を遂げ、東アジアの市場で重要な貿易品になっていることを指摘する。そして、清国は土地が広く、人口が多く、資源も多いので、将来は日本の海産物や製造品の一大市場になるのに十分であり、この機会に乗じて通商上の特権を拡張すべきだとした。
最恵国待遇を条項に入れて、欧米諸国と同等の地位になるのは当然だが、小村は、さらに次の3点を講和条件に加えるべきであると述べる。3点とは、開港場の増設、鉄道の敷設、および汽船航路の拡張である。
 実利にポイントを置いた意見
第一点は、すでに欧米諸国に開いている港の他に、北京、徐州など一市四港を開港すべきとの主張である。北京では既日本の製造品を販売する店が繁盛しているが、現在は外国人が商売をすることが禁じられている。しかし、営業を黙認されている西洋人もいるので、この機会に公然と市場を開く必要がある。その他の四港はいずれも交通の便が良く、商業上の要地なので、やはり開港すべきだという。
第二点では、北京―天津間と山海関―牛荘間の鉄道敷設権を取るべきだと述べている。何故なら、北京は首都であるにもかかわらず交通が非常に不便であり、日本からの郵便も1か月近くかかってしまう。しかも、冬は海が凍結すると迂回して運ばねばならない。そこで、北京を開港する必要があるならば、すみやかに北京ー天津間、山海関―牛荘間に鉄道を敷設し、北京と大連湾を連絡する必要性を力説した。
第三店は、欧米に許可したもの以外に、汽船航路をさらに拡張すべきとの主張である。中国国内には清国人しか使用できない航路が多く、よって貿易が進んでいない問題点があった。そのため日本だけでなく欧米諸国にも開放することによって、どの国の利益にもなると述べている。
三点とも、清国で二度にわたって勤務し、豊富な知識を蓄えた小村ならではの指摘である。結局、意見書からは第一点と第三点が採り入れられ、講和条約第六条で、北京、重慶、蘇州、杭州などの開港と、いくつかの航路を日本汽船に拡張することが要求された。下関条約で認められたのは、沙市、重慶、蘇州、杭州の開港と、宣昌から重慶、上海から蘇州と杭州への航路拡張にとどまったが、一部は小村の要求が反映された。日本の権益拡大を目指す交渉担当者からすれば、彼の意見は有益だったと評価できる。
 三国干渉と大病
明治28年4月17日、下関条約は調印された。この条約によって、清国は朝鮮が独立国であることを認め、賠償金二億テールを日本に支払うことになった。清国が朝鮮を「属国」視することを否定させた日本は、次第に朝鮮半島での影響力拡大を狙うことになる。また、日本は台湾・遼東半島・澎湖諸島を獲得した。これによって日本は植民地を保有する帝国となる。
大国である清国を圧倒したことで、勝利に酔ってもよさそうだが、小村にとってこの春は辛い時期となった。
4月20日、駐日ドイツ公使が外務省を訪ねて来た。陸奥外相は、大本営がある広島に居り、林董外務次官は外出中だったので、政務局長の小村が応対した。だが、ドイツ公使は他国の行使と共に至急外相に面談したい緊急要件があるので、明日再び来るとだけ告げて去った。この来訪は、23日にドイツ・ロシア・フランスが遼東半島の返還を要求した三国干渉の予兆だった。
また小村は、高熱を発してそのまま入院した。重症の腸チフスであり、病院での生活は一か月に及んだ。入院中に三国干渉を知ると、激昂のあまり熱が上がり、病状が悪化したともいう。
この大病により、かつては眉目秀麗とも言われた小村の風貌は一変し、目はくぼみ、頬はこけ、だいぶやつれてしまった。退院後も健康が回復しなかったので、神奈川県大磯で療養を続けた。小村が入院した日には、陸奥も結核の両様のために広島から兵庫県舞子に移動していたが、三国干渉の対処に追われて休む暇もなかった。今では名外相として知られる両名にとって、散々な時期だったといえよう。





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