日清戦争と小村
 ~高評価を得る~
 


 戦地で民政庁長官に
清国から帰ってきたばかりの小村は、休む間もなく日本を離れることになった。9月1日に出張を命じられ、山県有朋司令官の部下として第一軍に従い、4日には朝鮮に出発した。
9月12日に仁川に上陸した第一軍は、清国軍が立てこもっていた平壌を15日に攻撃する。翌16日に攻略すると、さらに北進して鴨緑江岸の安平河口と虎山も激戦の末に攻め落とし、すでに清国軍が退却していた九連城と安東県を無血占領した。
朝鮮での戦闘を終えて、敵国である清国の領土を占領した第一軍は、安東県に民政庁を設置し、10月30日に小村はそこの長官となった。当時の安東県は、多くの住民が山に避難して、空き家での盗難が絶えない問題があった。そこで小村は、避難民に帰宅を呼びかけ、警察や憲兵を巡回させることで治安の回復に努める。民政庁の保護を受ける者には通行券を、さらに、正当な居住者には住居券を自宅に貼り付けることで、安心して帰宅することができるようになり、間もなく安東県には平穏が戻ったという。そのため、第一軍が現地で物資を調達するのも容易になり、小村の措置は日本軍の利益にもなったのである。
 山県有朋から評価される
戦争中に占領地を治めるのは骨が折れるだろうが、小村は迅速な対応で見事に任務を果たしていた。
だが、すべてが順調であったわけではなく、陸軍のなかには、戦地での略奪や支配地の住民に強圧的に接することに馴れており、国際法を重んじるような小村のやり方が気に食わない者もいたのである。
佐藤正陸軍大佐は、その代表格の人物で、何かにつけて小村に難癖をつけた。佐藤は朝鮮での戦闘で武勲を挙げていたこともあって、外交官出身の小村を軽蔑し、無理やり一緒に酒を飲ませたり、暴言を吐いたりし、暗闇に紛れて殴ったこともあった。
最も小村は、どのような態度を取られても平然としていた。佐藤大佐も、後に自分の行動を反省し、「小村は、小さな体に似合わず、肝が据わっている」と尊敬するようになっている。
この度胸の良さと民心掌握の手際の良さに、山県有朋が高い評価を与えた。彼は、小村が高等官三等で大佐相当だったために民政長官の職務に支障があるだろうと考え、陸奥外相に頼んで11月8日に弁理公使(高等官二等)に昇進させた。
 桂太郎に認められる
第三師団長として出征していた桂太郎もまた、小村の実力を認めた。小村と桂は、安東県で初めて知り合ったが、このとき意気投合したことが、後に桂が首相となった際、小村が外相に任命されることにつながる。小村にとっては、まさに運命を変えた出会いであった。
安東県の情勢が落ち着いたことによって、小村は第五師団の福島安正中佐に仕事を引き継ぎ、11月下旬に帰国した。
民政庁長官を務めたのは短い期間だったが、小村にとっては大きな成果に満ちた出張だった。親友である金子堅太郎の紹介で、清国に臨時代理公使として着任する前にすでに伊藤博文とは会っていたが、長官として有能さを見せたことで、山県と桂からも高い評価を得ることができた。
また、安東赴任中には、前年に刊行されたばかりの全二巻に及ぶ「パークス伝」を読み込んでいる。ハリー・パークスは1865年から83年まで18年間も駐日英国公使の座にあったことで有名だが、日本勤務の前後には通算24年間を清国で過ごし、中国語に堪能で駐清公使も務めた外交官であった。統治の参考にするためだったかもしれないが、多忙な仕事の合間を縫ってそのような洋書を読んだのは、勉強家の小村らしいエピソードである。





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