日清戦争と小村
 ~日清戦争と条約改正~
 


 日清戦争勃発
6月8日に清国軍は朝鮮に到着し、日本軍は12日に仁川に上陸した。翌13日に日本軍はソウルに入ったが、甲午農民戦争はすでに沈静化していた。だが、朝鮮と清国の要請にもかかわらず、日本軍は撤退しなかった。陸奥外相は、これを好機として一戦を交え、朝鮮における清国の影響力を排除しようとしたのである。そのため陸奥は、開戦に向かって強硬な外交交渉を進めていく。
まず陸奥は6月16日、清国の汪鳳藻駐日公使に対して、日清両国での反乱軍の共同鎮圧と朝鮮内政改革を提案した。22日に汪がすでに反乱は鎮圧されていること、改革は朝鮮自らが行うべきことを理由に拒否すると、翌23日に、朝鮮は独立国として不完全なので内乱や内紛が繰り返されるが、これは日本の安全も脅かすとして、駐兵と内政改革の正当性を訴えた。
小村は、陸奥の開戦方針を忠実に守り行動した。7月上旬には、日清衝突を心配したイギリスの斡旋によって清国側代表と会談したが、朝鮮での内政改革実行と日本軍の撤退拒否の二点で譲らず、物別れに終わっている。陸奥は、朝鮮政府に何度も日本単独での内政改革要求を行い、これも受け入れられないと、いよいよ戦争になった。
 条約改正へ
だが、日清戦争が近づいていた頃は、日本にとって悲願の条約改正が目前に迫っていた時期でもあり、欧米列強への態度は慎重を要した。日本は戦争を望んでおらず、あくまで清国側に非があるように見せるため、清国軍の撤退や内政改革の要求を行ったのである。小村も欧米諸国、特に条約調印を控えていたイギリスの外交官への態度には心を砕いた。公使の報告は本国政府の政策決定に大きな影響を与える。それゆえ、小村は各国行使の前で、日本が戦争を望んでいないように振る舞い、平時と同じように泰然自若と談笑していたという。このときの条約改正では、何といっても陸奥の後見が大きいが、小村も一公使として可能な限りの役割をしっかりと果たしたと評価できる。
7月16日、ロンドンで日英通商航海条約が調印された。5年後に発効するこの新条約によって、領事裁判権は廃止されることが決まった。また、関税自主権は完全には回復されなかったが、条約調印国がすべて同意すれば関税率の変更が認められるようになり、状況は大きく改善された。この後、他の欧米諸国とも条約改正を行い、法権上はイギリスを含めた欧米諸国と日本は対等になったのである。
これまで、井上馨や大隈重信のような大物政治家が取り組んでも失敗の連続だった条約改正が、日本に有利な条件で実現したのは、伊藤内閣の強力さや陸奥の努力だけではなく、国際環境の変化も重要な要因だった。ヨーロッパやアジアなど世界各地でロシアと対立を深めていたイギリスは、東アジアで提携できる相手として日本への関心を強めていた。さらに、日本が内閣制度(1885年)、憲法の発布(1889年)、議会開設(1890年)と次々に西洋的な政治制度を導入し、その運営に成功していることが、文明的な近代国家として日本の評価を高めたことも、条約改正を認めた理由の一つである。
 開戦
条約改正に成功した陸奥は、これまでのように列強の眼を気にすることなく、開戦に突き進んでいく。
7月23日未明、日本軍はソウルの朝鮮王宮を制圧、政権を転覆させて高宗国王の父である大院君に実権を握らせた。さらに、清国軍を朝鮮から追い出す目的で、日本軍の援助が必要と高宗に要求させることで、武力行使する正当化の根拠とした。そして、25日に忠清道牙山湾の豊島沖で清国軍と海戦したことにより、実質的に日清戦争は勃発した。
小村は、7月31日に国交断絶を清国政府に伝え、8月1日には早くも北京の公使館を撤収している。すでに戦闘は開始されているので、危険を伴う船旅となったが、15日には神戸に帰国し、17日に東京の外務本省に到着した。
約8か月という短い任期ではあったが、清国での経験と仕事ぶりは、小村に外交官としての自信をつけたことだろう。さらに次の任務で、後の人生を変える大きな出会いが彼には待っていたのである。





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