日清戦争と小村 ~清国へ赴任~ |
だが、今まで地味な仕事をこなしてきた小村に、さほど大きな期待はよせていられなかったようである。アメリカ滞在経験が長いにもかかわらず、当時は大きな外交懸案がなかった非英語圏の清国に派遣されたのは、それを物語っている。 陸奥宗光外相は、小村が清国行きを嫌がるのではないかと心配していた。だが、小村はあっさりと引き受けた。小村は「欧米のことは私はよくわかっていますが、清国はいまだに知りませんので、すべてが不可解です。私は大いに清国のことを研究したいと思いますから、とても満足しております。」として、初めての外国勤務に心躍り張り切る様子がうかがえる。 10月23日に東京を発った小村は、郷里の宮崎、そして神戸と上海に立ち寄ってから11月10日に北京に着いた。そして北京に到着した日から駐清臨時代理公使となり、いよいよ外交官としての活動が始まった。
小村は、陸奥に「すべてが不可解」と言ったものの、少しは清国の事情を知っているつもりであった。しかし、北京ではまったく事情が分からず、わずかにあった自身は打ち砕かれた。困り果てた小村は、昼も夜も暇さえあれば本を読み、清国に関する知識を吸収しようと努めた。 この状況で彼を助けたのは、抜群の語学力だった。清国について書かれた日本人の著作や調査に信頼できるものが少ないと判断した小村は、西洋人の著作を読み漁った。また、日本公使館員だけでなく、外国の公使など外交官とも積極的に交流し、情報収集も行っている。いずれも、大量の洋書を読みこなすことを苦とせず、複雑な清国情勢について欧米人と議論できる小村の高度な英語力とコミュニケーション能力抜きでは不可能だろう。 寸暇を惜しんだ努力の甲斐あって、彼は清国に関する広範な知識を身につけることができた。そして、ここで得た自信が、小村を大きな舞台で活躍させることになる。
きっかけは、朝鮮半島で起きた甲午農民戦争だった。明治27年(1894)2月、悪性に憤ったチョンボンジュンが全羅道古阜郡で放棄したが、他の地域でも多くの農民が呼応し、鎮圧を試みた政府軍を次々に破って大規模な反乱に膨れ上がったのである。 この朝鮮の内乱が日清関係に緊張をもたらしたのは、6月1日、朝鮮国王高宗が清国に反乱軍鎮圧のための派兵を要請することを決定したからである。1885年に日清両国で結ばれた天津条約では、朝鮮半島で騒乱が起きた際には、日本と清国いずれかが派兵する場合の事前通告が義務付けられていた。そのため翌6月2日に、日本も朝鮮に派兵することが閣議決定された。 ここで、小村が重要な役割を果たす。6月7日、陸奥外相は清国から正式に文書による派兵通告を受け取り、彼の指示で小村は公使館警護のために日本も派兵することを清国政府に通知した。陸奥はやむを得ない出兵だったと諸外国に示すために、清国からの通告直後に小村に派兵通知をさせたのである。 これに対して清国は、朝鮮は清国の属国であるから介入するのだと、日本の派兵とは性格が異なることを強調した。そのうえで、自国民保護を目的とするのであればあ、少ない兵力にすべきだと日本に注文を付けた。 12日、小村は陸奥の訓令をもとに猛反論する。まず、いまだかつて日本は朝鮮を清国の属国と認めたことはないとし、朝鮮における清国の優位性を否定した。さらに、日本の派兵は天津条約に基づく措置であり、派遣する軍隊の多寡は日本政府が決めることで、他国から行動を制限される筋合いはない。仮に言葉の通じない外国の兵士と遭遇しても、日本の軍隊は規律があるので不測の事態は起きないと啖呵を切り、日本の派兵に制約を加えようとする清国側を徹底的に批判した。 公使としての本格的な初仕事で、これだけ自国の立場を強く主張し、しかも陸奥の訓令にはない日本の兵士の優秀さまで付け加えている。日本政府から見れば、初舞台として合格点であろう。 だが、小村の働きはこれにとどまらない。彼は日頃から各国の行使と接触してきたが、日清関係の緊迫化を懸念したロシアとイギリスからの調停の申し出があったのである。小村は列強による介入の可能性を陸奥に伝えた。すでにロシアは駐日公使が陸奥と会談していたが、イギリスの動向は小村の情報で初めて明らかになった。 陸奥は、この問題で伊藤に相談し、万が一調停を依頼する場合は、どの国がいいかを尋ねた。伊藤は、清国に大きな権益を持つイギリスと、領土的野心のあるロシアは避け、アメリカとドイツが適任だと答えている。結局、調停に最も熱心だったのは、日清両国との貿易額が大きく、利害関係の深いイギリスだった。だが、日本は開戦直前にイギリスがあきらめるまで、調停をかわし続けた。事前にその可能性を伝えていた小村の情報が、政策決定でも生かされたと言えよう。 |