日清戦争と小村
 ~大韓帝国成立~
 


 日露間の思惑がとりあえずは一致
その後の朝鮮であるが、小村・ヴェーベル覚書を土台にして、6月9日に山県・ロバノフ協定がモスクワで成立した。この協定は、ニコライ2世の戴冠式に出席した山県有朋特派大使が、ロシア外相アレクセイ・ロバノフ・ロフトスキーとの間で、朝鮮財政への共同援助、朝鮮で騒乱が起きた際の共同出兵等を約束したものである。
次に、明治31年(1898)4月25日には、西・ローゼン議定書も締結された。これは、西徳二郎外相とローゼン駐日ロシア公使が、これまでの合意事項に加えて、日露両国が韓国の独立尊重と内政への不干渉を認め、ロシアは日韓間の商工業上の関係発展を妨害しないことを定めていた。
いずれも、朝鮮半島で優位に立つものの戦争までは望まないロシアと、影響力を可能な限り残しておきたい日本の思惑が一致して実現した取り決めだった。
 大韓帝国の成立
このように、日露間の対立が小康状態を迎えていた頃、朝鮮半島では重要な出来事が二つあった。
一つは、王の帰還である。国内外の要請によって高宗は重い腰を上げ、1897年2月20日にようやく王宮に帰還した。ロシア公使館への滞在は、実に1年以上にも及んでいた。長期に及んだ不正常な状態は、遂に終止符が打たれた。
二つ目は、大韓帝国の成立である。高宗は、王宮から離れている間に、政界の混乱を利用して各政治集団の勢力を削ぎ、反発の大きかった断髪令を廃止する等、権力基盤を固めた。その上で、自らの権威を高めるため皇帝を名乗り、1897年10月12日に、国号を「大韓」に改めたのである。
高宗には、国号の変更によって、独立国として朝鮮半島が生まれ変わったことをアピールする意図もあった。自国をめぐる日露対立の小康状態も、彼を後押しするはずだった。
だが、大韓帝国の寿命は短かった。歩み始めて間もなく、日本の支配下に置かれるからである。そして、韓国支配の急先鋒の一人となったのが、小村だった。




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