小村外交とは
 ~小村の功績~
 


 小村の功績
小村寿太郎は56歳という若さでこの世を去った。彼の先輩格である陸奥宗光も53歳で亡くなっており、外交務というのは、寿命を縮めるほどの心労と激務であったのだろうか。
健康に恵まれず、天寿を全うできなかった小村だが、その生涯における功績は多大である。
桂内閣では、小村が第一次・第二次ともに外相を務め、在任期間は通算で7年3か月余りに及んだ。これは8年間外務卿・外務大臣を務めた井上馨、7年5か月も外相を務めた内田康哉に次いで在任期間歴代3位である。
条約改正交渉をした井上、1910年代、20年代、30年代にそれぞれ役割を果たした内田ももちろん重要である。だが、結局は条約改正に失敗した井上や、20年代に協調外交を行いながらも満州事変後に中国に強攻策を採った内田に比べると、外相時代の業績は小村が突出している印象を受ける。
外相としての小村は、イギリスとの同盟を成立させ、条約改正を実現した。何より日本は欧米列強に匹敵し得るほどの国家になった。日露講和条約では満州での権益を獲得し、韓国の保護国化と併合を実現させることで、日本の大陸進出に貢献した。
小村は、日清戦争前の1893年から第三次日英同盟が成立する1911年まで、常に日本外交の第一線で活躍してきた。二度も外相を務めただけでなく、外務省本省では外務次官や政務局長、また、イギリス・ロシア・アメリカ・清国・朝鮮といった重要な国々で大使・公司を歴任した。約18年間の長期にわたって、外交政策決定過程に加わった外交官もめったにいない。
このように大きな業績を残した小村は、陸奥宗光や、1920年代の英米協調外交で知られる幣原喜重郎とともに最も著名な外相といえる。
 驚くべき出世
小村は決してエリート外交官ではなかった。日本で最初に努めた司法省では仕事がうまくいかず、膨大な借金もあった。また、外務省への異動も杉浦重剛や斎藤修一郎の推薦があったからである。
翻訳局時代は長く閉職にあり、次長として学校の同級生だった鳩山和夫局長のもとで働かざるを得なかった。アメリカから帰国後の小村のキャリアは決して順調とはいえず、むしろ出世コースからはずれていた。
小村はまるで社交的ではなく、閥も嫌いなので作らなかった。そのため、外務省内では目立つこともなく、40歳近くまで翻訳局長にとどまり、うだつの上がらないまま外務官僚のキャリアを終える可能性もあった。
そこで陸奥に引き立てられた幸運はあった。だが、小村が能力を見せなければ、清国への赴任を命じられることもなかっただろう。その後の小村は、驚くべき早さで出世を遂げていく。
小村は、陸奥没後に現れた日本の代表的な外交指導者となった。陸奥には、原敬、加藤高明、林薫といった「三羽烏」と呼ばれる側近がいたが、彼らではなく小村が実質的に陸奥の後継者となったのはなぜだろうか。
原敬は、陸奥が関わった自由党の後進である立憲政友会に入党し、政党政治家として陸奥の志を継ぐ道を選んだ。英語が不得手であったこともあり、原は外交官より政治家が向いていると考えたのだろう。加藤高明は40歳の若さで第四次伊藤内閣の外相を務めたが、第一次桂内閣に留任せず、辞めてしまった。その後は「東京日日新聞」の社長になり、駐英大使として外交官に復帰するのは、小村が二度目の外相の座に就いていた時だった。加藤は、駐英大使・公使としては活躍したが、四度も外相になりながら大きな成果は残していない。結局加藤も政党政治家になる道を選び、憲政会の総裁として1924年に首相に就任した。林薫は、駐英公使時に日英同盟を成立させる栄誉を得るものの、外相としては小村ほどの業績を残せなかった。彼は外交政策を立案・実行するよりも、在外大使や公使として能力を発揮するタイプの外交官であった。
結局後継者のうち2人が外交の世界を去ったことが、小村の出世に大きな影響を与えた。また、いずれも外相になって能力を発揮するタイプではなかった。数々の大きな業績を残しえるのは、外相として優れた能力を持つ小村だけだったのである。
 外交手法の特徴
小村は、外交主砲では秘密外交を貫き、政党による外交への干渉や国民の政治参加には批判的であった。彼は、外交の権限は外相および内閣にあると考えていた。
よって、外交方針に伊藤や山県のような元老が影響力を及ぼすことに強く反対し、藩閥政治にも反発していた。そのため、桂首相の支持を取り付け、時に桂をけん制しながら外交交渉で主導権を握り、元老の関与を限定的なものにとどめた。小村の下で、内閣と外務省は外交政策を形成する上での比重を高めていったのである。
このような小村の外交手法は、非民主的でエリート主義的だった。しかしその一方で、外交政策を政争の具にしない強みがあった。
外交政策を遂行する際に、小村は一貫してぶれなかったが、これは彼の政策だけに帰することではない。桂の強力な支持によって、政党などの政治勢力に介入される余地が少なかったことも強みである。また、小村の民主主義嫌いは、外交政策を立案する上でもう一つの長所があった。それは、政治体制によって外国への評価を決めなかったため、柔軟な外交政策がとれることである。
例えば、アメリカの政策決定者には、日露戦争中に、ロシアを皇帝が支配する専制国家として批判し、より民主的な日本を支持した者がいた。しかし小村は、特定のイデオロギー(政治信条)に左右されることがなかった。彼は、純粋にパワー・ポリティカル(権力政治的)な観点のみで、国際政治を観察することができたのである。だから、日露戦争時の外相でありながら、アメリカに対抗するために、第二次日露協約でロシアと関係を強化することを厭わなかったのである。
外国経験が豊かでありながら、特定への国への思い入れが外交政策に影響を与えなかったのも小村の特徴だった。しばしば、長期の外国経験がその国への過剰な思い入れを生み、外交官としての判断を迷わせることがある。
もし小村がそのとき存命ならば、アジア・太平洋戦争期の松岡外相のナチスドイツへの思い入れを見たらきっと一笑に付したのではないか。また、この戦争末期に中ソ大使を長く務めた東郷茂徳外相は、ソ連の終戦仲介に期待をかけすぎて失敗している。
小村は、留学をしたアメリカをはじめ、どの国の贔屓もせず、距離をとって国際情勢を冷静に判断することができた。彼のように、日本と関係の深い外国での勤務をすべて経験しながら、広く公平な視野を持ち続けた外交家は稀である。




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