小村外交とは
 ~小村が残した課題~
 


 残された課題
小村は多くの業績をあげた。だがそれと同時に、彼が残した課題も多く存在した。それは清国とアメリカとの関係だった。
第二次外相期で小村が直面したように、満州問題を巡って清国との緊張関係は続いていた。また、台頭しつつあったアメリカとの関係を、いかに築いていくかは、日本外交の新たな課題となっていた。
さらに、明治44年(1911)10月に清国で勃発した辛亥革命は、東アジアの国際政治に激動をもたらした。特に影響を受けたのは、同盟国イギリスとの関係だった。
日本は、帝政派と革命派のどちらを支援するかで政策が揺れ動いたが、その間にイギリスが両派を仲介して存在感を高めた。日本に相談せずに抜け駆けをしたイギリスへの不信感は募り、これ以降の日英関係は冷却化していく。この年は、第三次日英同盟でアメリカが発動対象から外れたこともあり、日英同盟にとって大きな分岐点となった。
イギリスとの同盟関係が動揺する中で、日本の中国政策はさらに迷走を続けた。その頂点が、1915年に加藤外相が行った対華二十一か条の要求である。この要求は、中国で反発を招いたばかりか、アメリカからも強く批判された。中国とアメリカとの関係調整は、その後も大きな課題として存在し続けたのである。
 清国と韓国への外交姿勢
また、小村の外交には「負」の遺産ともいえる面もある。それは、清国と韓国に行った外交政策である。両国への小村の姿勢には顕著な違いがあった。清国についてはもう勉強をして、下関条約に備えて長文の意見書も提出しているが、韓国のことを知ろうとする意欲は、小村の生涯を通じて感じられない。
小村の頭の中には、韓国はまともな独立国ではなく、政治家には独立を維持する能力もないと考えていた。そのため、日本の安全保障にとって重要な地域であるという視点からしか関心が持てなかったようだ。
このような韓国への見方は、当時の日本では珍しいものではなかった。しかし、帝国主義時代だから、他の視点がなかったというのは正しくない。日本にも違う視点で考えている政治家がいた。それは伊藤博文である。
伊藤は、彼なりに韓国の発展を考えて、教育や産業の発展と振興に務めた。その伊藤も結局、統監としての統治の限界を感じ、併合に賛成した。しかし、小村と異なる韓国感を持っていた政治家がいたのは事実である。
小村の政策は、韓国併合や満州への進出によって、日本の権益拡大に貢献した。だが、特にアジア・太平洋戦争後の日本とアジア諸国との関係を困難なものにする一要因ともなった。もちろん、韓国や満州への進出を単純にのちの戦争につなげることはできない。また、当時の日本が別の選択肢を探ることのできた可能性は高いとは言えない。
しかし小村外相期の成果が、その後の近隣諸国との関係に大きな影響を与えたことは事実である。明治38年(1905)の北京条約は、21世紀の今日まで続く中国での「反日」の源流になったともいわれている。
 新外交への対応
小村の外交は、まさに帝国主義外交そのものだった。だが、小村の没後、そのやり方だけでは通用しなくなっていく。第一次世界大戦中から、アメリカが帝国主義的な勢力圏外交を否定する「新外交」を打ち出しつつあったからである。
日本の外務省で、アメリカの新外交に呼応するための政策を立案したのが、皮肉なことに小村の長男である欣一であった。欣一は、外国経験が豊富で仕事一筋の父の小村とは異なり、外国勤務を嫌がり、多趣味な人間だったため、父ほど出世しなかった。
しかし、彼は父の行った帝国主義外交ではなく、アメリカが唱えた「新外交」に日本の外務省が呼応する上で重要な役割を果たすことになる。
長女の文子は、新外交に適応して英米との協調外交を展開した幣原の側近である佐分利貞男と結婚した。次男は、小村の好まない新聞の世界に入った。
そして、小村が活躍したころは確固とした職業として確立していなかった新聞記者は、1920年代に入ると高学歴者が就職する地位の高いあこがれの職業になっていた。新聞の発行部数も飛躍的に増えていた。それゆえ東京帝国大学を卒業した次男が新聞記者となったのは、決して不思議な選択肢ではなかった。
外交官の仕事も、第一次世界大戦頃から、飛躍的に増えるようになった。また、外交官試験制度が確立することで、外部からの人材流入が減り、外務省員の一体感も強まった。
外部から入省して活躍する小村のような豪傑型の人材は必要とされず、多くの仕事をこなせる能吏型の外交官が好まれるようになってきた。小村が行った外相個人の力量に大きく依存する個人外交ではなく、外相といえでも部下との役割分担が以前よりも必要な外交に移行しつつあった。小村没後の日本は、新しい時代を迎えていたのである。




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