畿内の火薬庫大和 ~経覚失脚~ |
永享3年(1431)8月に興福寺別当再任と大僧正への昇任を足利義教から認められた経覚だったが、永享5年と翌6年には興福寺別当辞任を義教に申し出ている。戦乱の激化にともない、興福寺別当の職務が大きな負担になっていたのだろう。しかし、そのたびに義教に慰留され、永享7年にようやく辞任を認められた。 ところが、後任の松洞院兼昭は永享8年8月、義教の怒りを買って興福寺別当を解任され、同年10月には大安寺別当の地位も失った。兼昭は11月3日に亡くなった。世間では餓死したとも自殺したとも言われた。いずれにせよ、不遇の死である事に変わりはない。 兼昭の死は経覚の心に暗い影を落としたに違いない。以後も経覚は表面上、義教と良好な関係を保っていたが、破局は突然に訪れた。
これが義教の気分を害した。翌永享10年4月、経覚は上洛したが、義教は面会を断った。代わりに武家伝奏の中山定親が「なぜ払わないのか」と経覚を詰問した。これに対して経覚は「今まで私が天下の為にどれだけ骨を折ってきたと思うのか。これ以上の負担には堪えられない」と反論した。 すると、大乗院門徒たちが経覚・尊範師弟の悪行を幕府に訴えた。確かに尊範入室の折に経覚がとった強引な手法については大乗院内にも批判はあったが、経覚は概して公正な門主だった。永享6年に一乗院昭円が義教の不興を買って失脚した際も、一乗院門徒たちが昭円の不正を幕府に訴えていたことを踏まえると、自発的なものではなく義教の意向をくむ形で提起された訴訟であろう。つまり、義教に受けの悪い門主を廃することで、門跡の安泰を計ろうという「主君押込」である。
幕府は新門主の選定を急いだ。当初は鷹司家の子息を候補に考えていたが、あまりに幼いため、9歳になる一条兼良の息子に白羽の矢を立てた。同月28日、大乗院門徒たちは上洛し、新門主決定の御礼を義教に申し述べている。 12月8日、9歳の男児が大乗院に入室する。その2年後の永享12年11月に11歳で出家した。尋尊の誕生である。尋尊は翌13年2月には院務始を行い、大乗院に対する九条家の影響力はここに一掃された。 40代半ばにして、経覚の人生は一挙に暗転した。だが、思いもよらない形で経覚に再起のチャンスが訪れた。それは、嘉吉の乱である。 |