畿内の火薬庫大和
 ~成信院光宣の暗躍~
 


 おさまらぬ大和の争乱
永享2年(1430)2月、将軍足利義教はなおも幕府軍の大和派遣にこだわっていたが、結局は沙汰止みとなった。代わりに畠山満家が、越智や箸尾に「私弓矢」を行わないように誓わせた。そして幕府は大乗院経覚・一乗院昭円・興福寺学侶に豊田中坊の対峙を命じた。2月16日、衆徒・国民から成る討伐軍が出陣し、豊田中坊の館を焼き払った。直接の軍事介入は避け、興福寺のバックアップに徹するという幕府の従来方針への回帰と言えよう。
また同年4月から6月にかけて、幕府は北畠氏と和平交渉を進め、北畠および沢・秋山を赦免した。北畠は罪を許された代償として、小倉宮を幕府に引き渡した。この交渉の立役者は三宝院満済と赤松満佑であった。
永享3年3月、幕府に反抗姿勢を示していた鎌倉公方足利持氏が、謝罪の使節を京都に派遣した。義教は使者との面会を拒んだが、畠山満家ら諸大名の諫めを受け、7月に対面し、持氏の謝罪を受け入れた。こうして、畠山満家や満済が主導した穏健路線が奏功し、永享3年半ばに幕府はようやく落ち着きを取り戻した。
ところが永享3年8月24日、筒井が箸尾城を焼き討ちした。これに対する報復として、箸尾が大軍を率いて、まず筒井方の蓬莱城を攻め落とし、ついで筒井城に向かった。27日に経覚から報告を受けた満済は、大いに憤ったという。
同月晦日、満済は将軍御所に赴き、大和で勃発した合戦について報告した。義教は「筒井の行動は実にけしからんが、これまで幕府が援助してきた者たちを見捨てるわけにはいかない。畠山満家・細川持之・山名時煕・一色義貫・赤松満佑の大名5名を出陣させる」と言った。しかし以前、畠山が出兵に反対した事が義教の頭に引っかかっていた。義教は満済を通じて、畠山・細川・山名に諮問した。案の定、3人は「室町殿(将軍御所)の建築など仕事が立て込んでいますので、今すぐには無理です。箸尾一人を撃つことなど、いつでもできます。出兵は来春に延期するのが良いかと思います」と意見を述べた。だがその後、畠山が箸尾に働きかけ、撤兵させたため、箸尾討伐は中止になった。
 大和への派兵
永享4年9月29日、越智・箸尾がまたもや筒井を攻撃した。筒井は筒井城に逃げ込んだ。ちょうど義教は富士遊覧の為京都を離れており、そのタイミングを狙っての蜂起だった。29日、帰洛した義教は越智・箸尾退治について、満済を通じて畠山の意見を徴収した。義教は、畠山満家が意思に背いて越智・箸尾をかばっているのではないかと疑っていた。
10月4日、満家は誤解であると弁明するとともに、「永享2年の私戦停止の御命令を私が通達して以来、箸尾はおとなしくしていました。去年、筒井が箸尾を攻撃したのが悪いのであって、箸尾に罪はありません」と説いた。だが義教は、「箸尾は挨拶に来ていない。去年、使節を派遣した際にも無礼な振る舞いがあったと聞いている。越智についても同罪である。大名2,3人に出陣を命じる」と譲らない。だが義教にも迷いはあったようで、「遊佐を派遣すれば調停出来るのではないか」とも考えていた。だが上洛した筒井覚順の必死の懇請により、義教の気持ちは越智・箸尾討伐へと傾いていった。義教の決意が固いと知った満家はそれ以上の抗弁はしなかった。
だが、誰を派遣するかでもめた。当初、山名時煕の派遣が検討されたが、時煕は大内氏の内紛の解決に忙殺されており、大和問題に関わる余裕がなかった。代わりに赤松満佑の派遣が決定し、満佑が帯びていた侍所の任務(京都警備)は一色義貫に引き継がれた。しかし、満佑自身の出陣は好ましくないという話になり、満佑の弟の義雅が出陣することになった。
大和問題に一貫して関わってきた畠山氏も出兵することになったが、義教は満家ではなく満家の嫡男である持国を大将に指名した。満家は「私に行かせてください」と頼んだが、許されなかった。大和派兵に否定的だった満家に任せたら討伐が進捗しないと義教は考えたのだろう。
事態は、大乗院経覚や一乗院昭円ら興福寺上層部の望まぬ方向に進んでいた。同年11月7日、経覚は上洛して満済と一夜雑談した。経覚は「今、大和では収穫の真っ最中です。幕府軍が大和に入ってきて合戦となれば、田畑が荒らされてしまい、年貢の徴収もままなりません。それに、幕府軍派遣の噂を聞いて越智・箸尾等が幕府に降参しようとしています。それでも討伐する必要があるのでしょうか」と語った。
満済も出兵には反対だったので諫言したが、義教を不快にするだけだった。11月27日、畠山持国と赤松義雅の両大将が大和へ向けて出発した。畠山勢は1300騎、赤松勢は800騎。雑兵は2000人であった。
尋尊によれば、義教に派兵を決断させたのは、成信院光宣の申し立てであったという。この頃から光宣は興福寺六方衆の一員という立場を逸脱し、実家の筒井家の利害を最優先して行動するようになる。後年、光宣と経覚は激しく対立するが、確執の種はこの時まかれたといえる。

 越智一派の専横
11月晦日、越智・箸尾は一戦も交えず城を焼いて遁走した。翌12月3日、畠山持国は戦勝を京都に報告したが、義教は「潜伏先を探し出して退治せよ」と厳命した。結局、越智・箸尾の行方はわからずじまいで、同月19日、幕府・筒井連合軍は陣払いを始めた。その帰途、土一揆に襲われた。赤松義雅の奮戦により何とか撃退したが、被害は甚大だった。この土一揆が越智・箸尾等に煽動されたものである事は明白だった。現有戦力で敵の掃討は不可能と判断した畠山・赤松は23日京都に帰還した。
この幕府の遠征は、越智・箸尾を威嚇する効果は大きく、翌永享5年の大和は小康状態を保った。しかし、懲りない筒井はまたまた騒動を引き起こす。
永享6年8月、筒井覚順の家臣だった片岡が越智維通のもとに走った。怒った筒井覚順は14日、約5千の兵を率いて越智討伐に向かった。越智維通の兵力は800人ほどであったが、何と野伏を2万人も動員し、難所に誘き寄せて、筒井勢を包囲殲滅した。筒井方は、大将の筒井覚順と覚順の伯父である五郎が戦死するという壊滅的被害を受けた。経覚からの急報により事の次第を知った満済は、筒井の軽挙妄動に呆れた。
一方、大勝で意気揚がる越智維通は、仲間の衆徒・国民である豊田・福智堂・小泉に奈良の治安維持を命じた。これは興福寺の権限であり、越智は越権行為に及んだのだ。かくして事態は、衆徒・国民間での「私合戦」の範疇を超え、越智らによる興福寺・幕府に対する反乱へと発展した。
越智一派の専横を、筒井方も指をくわえてみていたわけではなかった。永享7年4月、西大寺の僧侶だった成信院光宣の兄が上洛し、幕府から筒井氏の惣領と認められた。筒井順弘の誕生である。この擁立劇のお膳立てをしたのは、順弘の弟である光宣であろう。態勢を立て直した筒井氏は反撃に転じる。
同年9月、光宣の申し入れを受けて、義教は畠山持国を総大将とする大軍を大和に派遣した。畠山満家も三宝院満済も既にこの世に亡く、義教を掣肘する人物は皆無であった。幕府軍は越智・箸尾勢を駆逐し、12月には一部を残して京都に凱旋した。
ところが12月29日、残留の幕府軍に越智らが夜襲を掛けた。これに立腹した義教は、年が明けると、先年出陣した大名に一色義貫・武田信栄を加え、再び越智討伐を命じた。翌永享9年になると、義教はさらに増派し、幕府の総力を挙げて越智・箸尾討伐に取り組んだのである。


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