畿内の火薬庫大和
 ~一揆解消~
 


 幕府の権威を利用する
奈良に戻った後も経覚は、満済に矢継ぎ早に大和国の情勢を伝え、助力を依頼している。26日に満済の元に届いた書状では、大乗院の武士たちが沢・秋山退治の為に出発したものの、一乗院や多武峰は全く動かない旨を伝えている。晦日には二度にわたって宇陀郡での戦況を報告し、幕府から奈良に使者を派遣してほしい、と頼んでいる。なお、この時代でも半日あれば奈良から京都への移動は可能である。
翌2月1日、またもや経覚の使者が醍醐寺を訪れた。満済はこの使者を伴って足利義宜に面会し、経覚の要請五か条を伝えた。その第一条は次の通りである。
「大乗院の坊人(衆徒・国民)たちは宇陀郡に向かったものの、あまりにも無勢です。兵力はわずか4,5百人。これでは討伐の成功は見込めません。はやく一乗院の坊人をはじめ、大和国銃の武士が出陣するよう、両使を派遣して厳しくご命令いただきたい」
経覚は既に興福寺別当の地位を一乗院昭円に譲っていたので、経覚の威令は大乗院門徒にしか届かなかった。そこで経覚は幕府の権威を後ろ盾に、沢・秋山討伐を考えたのである。
 一揆討伐
2月2日、幕府の両使が下ると、一乗院や多武峰も出陣した。2月4日、大乗院方の武士たちは長谷寺周辺で激戦の末、「宇陀土一揆大将」である「榛原の刀禰という者兄弟」を討ち取った。その後も長谷寺周辺で激戦が続いたが、衆徒・国民が奮戦して抵抗を排除、これによる宇陀郡への進入ルートが確保された。最も一乗院の坊人たちの士気は低かったようで、経覚は満済に書状でぼやいている。
経覚は2月11日に上洛、13日には義宜に謁見し、沢・秋山討伐への貢献について感謝の言葉を贈った。これを受けて経覚は学侶・六方衆に宇陀軍侵攻を諮り、承認を得た。
2月23日、衆徒・国民が宇陀郡に攻め入り、沢・秋山は一戦も交えずに自ら城を焼いて逃走した。だが宇陀郡には沢・秋山を支持する土民たちがいた。彼らこそが宇陀土一揆を結成した主体であり、沢・秋山の宇陀郡復帰を阻止するには、土民たちを沢・秋山から切り離すことが不可欠である。

 一揆解散
2月27日、上洛した経覚は、「郡内一揆」を切り崩すための作戦を満済と相談している。すなわち、宇陀郡の土民たちは国中(奈良盆地)との間を往来して生活の資を得ているので、方々の道路を封鎖して、土民たちを兵糧攻めにしたうえで、沢・秋山への協力を辞めるよう命じる、というのである。この作戦が実行されたかは定かではないが、いずれにせよ沢・秋山の活動は治まった。「郡内一揆」は事実上解散したのである。
伊勢における反乱軍残党の討伐も順調に進展した。これを見て安心した義宜は、3月9日に元服した。同月15日、義宜は参議左中将に任じられ、また征夷大将軍宣下を受け、名を義教と改めた。以後、3月いっぱいは各種儀式が目白押しで、京都は祝賀ムードに包まれた。一乗院昭円・大乗院経覚も足利義教に拝謁して祝辞を述べた。幕府と興福寺は蜜月関係にあったといえよう。


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