畿内の火薬庫大和 ~一揆解消~ |
翌2月1日、またもや経覚の使者が醍醐寺を訪れた。満済はこの使者を伴って足利義宜に面会し、経覚の要請五か条を伝えた。その第一条は次の通りである。 「大乗院の坊人(衆徒・国民)たちは宇陀郡に向かったものの、あまりにも無勢です。兵力はわずか4,5百人。これでは討伐の成功は見込めません。はやく一乗院の坊人をはじめ、大和国銃の武士が出陣するよう、両使を派遣して厳しくご命令いただきたい」 経覚は既に興福寺別当の地位を一乗院昭円に譲っていたので、経覚の威令は大乗院門徒にしか届かなかった。そこで経覚は幕府の権威を後ろ盾に、沢・秋山討伐を考えたのである。
経覚は2月11日に上洛、13日には義宜に謁見し、沢・秋山討伐への貢献について感謝の言葉を贈った。これを受けて経覚は学侶・六方衆に宇陀軍侵攻を諮り、承認を得た。 2月23日、衆徒・国民が宇陀郡に攻め入り、沢・秋山は一戦も交えずに自ら城を焼いて逃走した。だが宇陀郡には沢・秋山を支持する土民たちがいた。彼らこそが宇陀土一揆を結成した主体であり、沢・秋山の宇陀郡復帰を阻止するには、土民たちを沢・秋山から切り離すことが不可欠である。
伊勢における反乱軍残党の討伐も順調に進展した。これを見て安心した義宜は、3月9日に元服した。同月15日、義宜は参議左中将に任じられ、また征夷大将軍宣下を受け、名を義教と改めた。以後、3月いっぱいは各種儀式が目白押しで、京都は祝賀ムードに包まれた。一乗院昭円・大乗院経覚も足利義教に拝謁して祝辞を述べた。幕府と興福寺は蜜月関係にあったといえよう。 |