畿内の火薬庫大和 ~宇陀郡内一揆~ |
この頃、称光天皇は危篤状態に陥っていた。しかも称光には子息がいなかった。南朝皇胤にとっては即位のチャンスが巡ってきたといえる。しかし幕府は、北朝崇光流の伏見宮貞成親王の子、彦仁王を次の天皇に考えており、南朝皇胤への締め付けを強めた。後南朝勢力がこれに憤ったことは疑いない。
8月、小倉宮を擁した北畠満雅が挙兵した。反乱の黒幕は将軍の地位を狙う鎌倉公方の足利持氏であるとの噂が流れ、幕府を震撼させた。そして今回も宇陀郡の沢・秋山が北畠満雅に呼応した。経覚、最初の試練であろう。 問題はこれだけに留まらなかった。正長元年(1428)7月の山門(比叡山延暦寺)と北野社の対立をきっかけに、8月には近江、9月には京都郊外で土一揆が発生し、11月には伊賀国・伊勢国・宇陀郡・吉野郡・紀伊国・和泉国・河内国など畿内全域に波及した。尋尊が「日本開闢以来、土民の蜂起、これ初め也」と評した、正長の土一揆である。
経覚は沢・秋山の討伐を決意するが、それには幕府から支援を引き出すことが必要だった。翌正長2年正月10日、経覚は上洛し、三宝院満済に年賀の挨拶をしている。しかし1000疋(10貫文)もの大金を持参しての訪問だから、ただの社交などではなく、宇陀郡問題への助力を要請したのだろう。 |