畿内の火薬庫大和
 ~後南朝勢力の蠢動~
 


 後南朝問題
室町幕府が大和の混乱に神経を尖らせていたのは、この時期に後南朝問題が発生していたからであろう。
明徳3年(1392)閏10月、いわゆる南北朝の合体(明徳の和約)が行われ、南朝は消滅する。けれども、南朝に仕えていた武士たちが幕府に心服したわけではなく、しばしば旧南朝の皇族たちを担いで反乱を起こしている。こうした南朝再興運動の事を、学界では「後南朝」と呼んでいる。
この後南朝問題が最初に持ち上がったのは、応永17年(1410)の後亀山法皇出奔事件である。
明徳3年、後亀山は南北朝の合体に同意し、40人ほどの供を引き連れて大和国の吉野を出て、北朝の後小松天皇に三種の神器を渡した。後亀山は京都西郊の嵯峨大覚寺に入り、「南主」「大覚寺殿」と呼ばれた。その生活は寂しいものであったが、後亀山は隠忍自重した。合体の際、将軍足利義満から、今後は天皇を旧南朝・旧北朝から交互に出すという条件を提示していたからである。しかし、この南北朝合体交渉は、北朝を無視して義満が独断で進めた感があり、旧南朝から天皇を出すという約束を履行することは現実的には不可能だった。ただ、その約束を露骨に破るのは気が引けたようで、義満は後小松天皇の皇太子を立てずにいた。そのため後亀山は、旧南朝系の皇子が立太子され、後小松天皇の次の天皇になることに、一縷の望みを託していたのである。
 後亀山の出奔
しかし応永15年に足利義満が亡くなり、嫡男の将軍義持が幕府の最高権力者になった。義持は明徳の和約の当事者ではないので、後亀山への配慮はなかった。後小松天皇の第一皇子である躬仁を即位させる計画を持っていた。
旧南朝に皇位を渡す意図が幕府に無いと知った後亀山は応永17年11月、嵯峨を出奔して吉野に移った。これは「躬仁の即位計画に対する抗議」であっただろう。
だが義持は後亀山を無視し、粛々と躬仁擁立の手続きを進めていった。応永18年11月25日に立親王、同28日に元服、翌19年8月29日に践祚した。称光天皇の誕生である。称光天皇はまだ12歳であった為、後小松上皇の院政が始まる。
新体制発足直後に国中合戦に直面した幕府は、その背後に吉野の後亀山の影を見たであろう。故に幕府は、国中合戦を終結させるために全力を注いだ。大和の混乱が収束した応永21年12月19日、称光天皇は即位した。
ところが、称光即位に不満を持った伊勢の北畠満雅が、応永22年2月に挙兵した。北畠満雅は、南朝の忠臣として有名な北畠親房の曾孫である。伊勢北畠氏は南朝勢力の中心的存在であったが、南北朝合体後は幕府に接近し、事実上の伊勢守護として機能した。応永10年の足利義満の伊勢神宮参詣の折には、道中の平尾で歓迎の宴を開いている。旧南朝系の皇子の即位を幕府に認めさせるため、幕府の歓心を買おうとしたのだろう。応永19年6月には北畠顕泰(満雅の父)がわざわざ上洛して幕府と交渉している。おそらく皇位継承問題であろう。しかし、北畠氏の努力空しく、称光天皇が誕生した。かくして北畠満雅は幕府との融和路線に見切りをつけ、開戦を決意したのである。

 興福寺、幕府と協力する
応永22年4月中旬、幕府は京極持光・土岐持益・一色義範に北畠討伐を命じた。討伐軍は近江から鈴鹿峠を越えて伊勢に入ったが、烈しい抵抗に遭い苦戦を強いられた。しかも、伊勢国と境を接する大和国宇陀郡には北畠氏の影響力が浸透していたので、宇陀郡の沢・秋山も北畠に加担して挙兵した。そこで幕府は衆徒・国民に沢・秋山退治のため宇陀郡への出陣を命じた。
同年6月19日、沢・秋山の活動が沈静化したのを見て、義持は畠山満慶に大和国宇陀郡経由で伊勢に進撃するよう命じた。その数僅か百二、三十騎ほどだったというので、衆徒・国民の兵力に期待していたのだろう。だが同月24日、宇陀郡の石破あたりで畠山・衆徒・国民ら幕府軍は土一揆の襲撃を受け、兵糧米以下悉くを奪われてしまった。それでも畠山軍は伊勢に向かったが、衆徒・国民は引き返してしまった。
7月には北畠氏に呼応して楠木某も挙兵し、大和国宇智郡・河内国に侵入。家々を焼き払った。大和武士の中にも楠木に通じた者がいたという。7月19日、畠山満慶は一隊を割いて河内に派遣している。同24日、楠木某は討ち取られた。
一方の北畠氏であるが、幕府軍は結局、北畠氏の本拠である多気城を攻略できなかったという。幕府軍は北畠満雅と停戦協定を結び、帰陣する。畠山満慶らが京都に戻ったのは8月18日の事であった。
将軍足利義持は、10月に北畠満雅を赦免している。実態としては和睦だったと思われる。翌応永23年9月、義持は諸大名を引き連れて奈良に赴き、初めて興福寺を参拝した。そして吉野の後亀山法皇に対して所領の回復を約束し、嵯峨大覚寺への帰還を要請した。後亀山法皇が後南朝勢力によって神輿として担がれ、北朝対南朝の構図が再現されることを、義持は警戒したのである。後亀山も、北畠満雅が幕府に帰服した今となっては、これ以上の抵抗は無意味と判断し、再び京都へ戻った。
この北畠満雅の乱において、興福寺は幕府に協力姿勢を取っている。後南朝勢力の大和進出は、興福寺にとっても回避しべき事態であったからである。以後、興福寺は後南朝討伐において幕府と歩調を合わせていくのである。


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