畿内の火薬庫大和
 ~国中合戦~
 


 合戦勃発
大乗院と一乗院の対立により興福寺別当の支配力は弱体化し、一乗院・大乗院両門跡が実質的に大和守護の職権を行使した。ただし宇智・吉野・宇陀の南三郡には権限が及ばず、基本邸には奈良と国中(奈良盆地)に限られた。
応永12年(1405)8月、幕府は宇陀郡を興福寺大乗院に与えたが、宇陀郡に割拠する沢・秋山両氏は宇陀郡内の興福寺領荘園を押領して対抗した。彼らはもともとは南朝方の武士であり、幕府方の興福寺に反発したのである。また、同じく南朝方だった多武峰寺も宇陀郡に進出し、興福寺と争った。このため、興福寺の宇陀郡支配は実質的には機能しなかった。
応永21年5月、多武峰寺と沢氏との間に争いが起こり、多数の国民が介入したことで大規模な紛争に発展した。四代将軍足利義持は停戦命令を出したが、効果がなかった。そこで幕府は興福寺別当の東院光暁に対し、争いを制止するよう要請した。これを受けて興福寺の学侶・衆徒が幕府の使者に協力して停戦仲介に乗り出したところ、沢を支援する越智は撤兵に応じる意向を示したが、多武峰の法師たちは幕府の使者に暴力を振るう始末だった。
再び幕府が使節を派遣した結果、両軍はようやく撤退した。興福寺の学侶・衆徒は再発防止策について話し合い、国民たちが私的な理由で軍事行動を起こす事が大和が乱れる原因であるとの結論を得た。そして、国民の「私合戦」を停止し、もめ事は幕府の裁定によって解決すべきとの意見を幕府に伝えた。
 興福寺の弱体化
応永21年6月20日、興福寺の要望を受ける形で幕府は衆徒26名・国民28名に対し、翌月5日までに上洛するよう命じた。7月8日、上洛した衆徒・国民に対して幕府は七カ条要求を突きつけた。主な内容は「今後、幕府の命令無く合戦した者は、大和から追放し、所領を没収する。加勢した者も同罪。両門跡からの指示があっても動くな。何か問題が起きたときは幕府に訴えよ。逆に幕府から討伐命令が出た場合は、対照が親類であっても容赦するな」といったもので、衆徒・国民は起請文を提出して遵守を誓った。
起請文の中には興福寺への忠誠を誓う条項もあるので、「幕府の衆徒・国民への措置は興福寺としても望むところ」と捉える研究者もいる。しかし、幕府を頼ったことは、やはり興福寺の弱さのあらわれであろう。もはや興福寺は、幕府の後ろ盾なしでは衆徒・国民の暴走を抑えられないのである。現に、幕府は10月には学侶24名にも上洛を命じ、私利私欲に走らず仏道修行に励むことを誓わせている。学侶の腐敗こそが衆徒・国民の跳梁跋扈を生んでいると、幕府は見抜いていたのである。

TOPページへ BACKします