畿内の火薬庫大和
 ~衆徒と国民~
 


 衆徒
永仁の南都闘乱において、一乗院・大乗院の双方の実働部隊として活躍したのが、衆徒である。もともと衆徒は、大衆(寺僧集団)と同義であった。しかし、摂関家の子息が入ってくることによる身分差が生まれてくると、興福寺内で宗徒=大衆としての一体性が失われていった。鎌倉期中期になると、学問に専念する僧侶は、大衆の中でも特に「学侶」と呼ばれるようになり、これに対し武装する下位の僧侶は「衆徒」として区別された。
さらに鎌倉期末期には、衆徒の中から中位の僧侶たちが「六方」として分出した。一方、下位の僧侶たちは「官符衆徒(かんぷのしゅうと)」という武装集団を構成した。(ここで言う衆徒は=官符衆徒)彼らは興福寺の僧侶であったが、一方で興福寺領荘園の荘官等を務めていた。興福寺内で仏事に関わる事はほとんどないので、実態としては武士と変わらない。ただ頭を丸めているというだけの事である。
彼等衆徒は、興福寺内の軍事警察機構として、学侶・六方の指揮下にあった。しかし永仁の南都闘乱など、興福寺内で武力衝突が頻発するようになると、次第に発言力を強めていった。
 国民
衆徒と同様の存在として「国民」が挙げられる。国民とは、春日社の白衣神人のことで、他国の「国人(地元武士)」と階層的には共通する。春日社は藤原氏の氏神を祀る神社であり、中世においては興福寺と一体の存在であった。このため国民は興福寺にも従属しており、興福寺・春日社の暴力装置として機能した。衆徒と性格が似通っているため、「衆徒・国民」と並び称されることが多かった。(ただし国民は僧侶ではないので、剃髪はしていない。衆徒よりも興福寺からの自立性が強い)彼らは一乗院・あるいは大乗院に属して「坊人」とも呼ばれた。
彼ら大和の武士は、毎年9月17日(現在の12月17日)に開催される春日若宮祭礼(おん祭り)において流鏑馬を共同で勤仕した。当初は平田党・長川党と他国の武士が参加、13世紀半ばから14世紀初めにかけて長谷川党、乾脇党、葛上党が参加、鎌倉末期~南北朝期に散在党が参加した。ちなみに、永仁の南都闘乱は、永仁元年(1293)のおん祭りの最中、流鏑馬の行列にまぎれこんで奈良に入った大乗院方の武士たちが一乗院を襲撃し、これに一乗院方の武士が応戦したことから始まっている。
散在党が参加する頃から、他国の武士の参加が見えなくなり、大和国の武士が独占的に流鏑馬を勤めるようになった。やがて国民層を中心に、長川・長谷川・平田・葛上・乾脇・散在の六党がロケーションを組んでおん祭りの流鏑馬を奉仕する体制が確立した。おん祭りでの流鏑馬奉仕は、衆徒・国民たちの連帯強化につながり、それが衆徒・国民の団結と台頭を促し、興福寺の大和一国支配の強化につながったといえるかもしれない。

TOPページへ BACKします