畿内の火薬庫大和
 ~鎌倉時代の興福寺~
 


 摂関家の分裂
治承・寿永の内乱(源平合戦)終結後、興福寺別当の信円の奔走により、興福寺は再建された。鎌倉幕府成立後も、大和国には守護は設置されず、興福寺が事実上の大和守護として君臨した。
だが、ここで別の問題が生じた。摂関家の分裂である。鎌倉時代の初めに摂関家は近衛家と九条家に分裂した。近衛家と九条家はライバル関係にあり、相手に対して優位に立つべく、興福寺の掌握を試みた。その結果、信円が保有していた大乗院・一乗院の両院が争奪の対象となり、紆余曲折を経て、近衛家は一乗院に、九条家は大乗院に子弟を送り込むという棲み分けが成立した。なお、近衛家からさらに鷹司家が分立し、九条家からも一条家と二条家が分かれたため(いわゆる五摂家)、後にこれらの家からも一乗院と大乗院に入るものが現れた。
当時、興福寺には100を超す院家や坊舎があったと考えられているが、摂関家の子弟が入室する一乗院と大乗院は、その中で別格の存在であった。天皇や摂関の子弟が院主となる院家を特に「門跡」と呼ぶが、興福寺においては一乗院と大乗院が「門跡」であり、「両門跡」と称した。ほとんどの院坊はいずれかの門跡の傘下に入り、門跡を頂点とする主従制的な門流組織が形成された。(両門体制)
 家柄によって決まる
かくして興福寺の僧侶は、出自によって明確に区別されるようになった。摂関家出身者は「貴種」と呼ばれ、トントン拍子に昇進していき、やがては門主(門跡の主)となる。摂関家より家格の劣る清華家、名家出身の僧侶は「良家」と呼ばれる。この階層の僧侶も別当になれるが、昇進スピードは貴種僧とは雲泥の差である。一例を挙げれば、貴種の大乗院尋尊の別当就任は27歳だが、良家の東北院俊円は42歳でようやく別当に就任している。これは、貴種に対する各種の優遇措置の存在に起因する。(良家は権別当を経て別当になるが、貴種は権別当を経験する必要が無い等)僧侶としての実績・能力等とは無関係に、ただ血筋・家柄によって地位が決まるのであり、良家が貴種を凌駕することは決してない。なお、良家の下には凡僧がいる。
結局、摂関家子弟の門主就任は、その門跡の莫大な財産を相続するということに他ならない。しかも支配下の院家に影響力を行使することもできる。貴種層による門流支配の深化は、荘園等の利権を巡る門跡間抗争を惹起した。永仁元年(1293)には近衛家・九条家・一乗家の対立を背景として一乗院と大乗院の間で抗争が勃発、鎌倉幕府の介入によって永仁5年にようやく沈静化した。また観応2年(1351)にも喜多院の支配圏を巡って両門跡の間で合戦が勃発している。

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