畿内の火薬庫大和 ~鎌倉時代の興福寺~ |
だが、ここで別の問題が生じた。摂関家の分裂である。鎌倉時代の初めに摂関家は近衛家と九条家に分裂した。近衛家と九条家はライバル関係にあり、相手に対して優位に立つべく、興福寺の掌握を試みた。その結果、信円が保有していた大乗院・一乗院の両院が争奪の対象となり、紆余曲折を経て、近衛家は一乗院に、九条家は大乗院に子弟を送り込むという棲み分けが成立した。なお、近衛家からさらに鷹司家が分立し、九条家からも一条家と二条家が分かれたため(いわゆる五摂家)、後にこれらの家からも一乗院と大乗院に入るものが現れた。 当時、興福寺には100を超す院家や坊舎があったと考えられているが、摂関家の子弟が入室する一乗院と大乗院は、その中で別格の存在であった。天皇や摂関の子弟が院主となる院家を特に「門跡」と呼ぶが、興福寺においては一乗院と大乗院が「門跡」であり、「両門跡」と称した。ほとんどの院坊はいずれかの門跡の傘下に入り、門跡を頂点とする主従制的な門流組織が形成された。(両門体制)
結局、摂関家子弟の門主就任は、その門跡の莫大な財産を相続するということに他ならない。しかも支配下の院家に影響力を行使することもできる。貴種層による門流支配の深化は、荘園等の利権を巡る門跡間抗争を惹起した。永仁元年(1293)には近衛家・九条家・一乗家の対立を背景として一乗院と大乗院の間で抗争が勃発、鎌倉幕府の介入によって永仁5年にようやく沈静化した。また観応2年(1351)にも喜多院の支配圏を巡って両門跡の間で合戦が勃発している。 |