雅平から家督を継いだ朝平の代、元弘3年(1333)鎌倉幕府が滅亡する。この元弘の乱から南北朝動乱にかけて小早川一族は一枚岩で結束しておらず、惣領の沼田家と諸家とで各々違う勢力に従って戦っている。すなわち、竹原家では二代目の景宗が足利尊氏に味方し、景宗の子佑景は、足利尊氏が倒幕の旗揚げをした丹波国篠村まで馳せ参じて忠勤に励んでいる。一方で沼田家はあくまで鎌倉方へ忠節を励んでいる。竹原家9代目の弘景が、子の盛景に宛てた書状によれば、沼田家の朝平は元弘の乱に際して、嫡孫の貞平を「先代方(幕府方の京都六波羅探題)」へ派遣している。六波羅勢は京都を足利尊氏らに奪われ、東国を目指して落ちのびてゆくが、近江国番場宿で探題北条仲時以下4百余名が自決する。貞平は六波羅勢の一員として番場宿まで同行するが、自決せず、その場を脱出して沼田荘へ帰りついている。最後まで鎌倉方として戦ったことで建武政権下における沼田家の立場は非常に苦しいものとなる。現に沼田荘は建武政権に没収され、竹原家に与えられる予定になっていた。しかし竹原家の二代景宗は、沼田家を「おや方」として尊重する方針で惣領家の断絶を忍びないものとして憐憫の情を持って建武政権へ赦免嘆願を実施し認められている。これにより沼田家は救われ、竹原家とともに足利氏に仕え、南北朝期には北朝方で活動するようになるが、これを契機として竹原家は沼田家に対し独自性をより強めるようになる。
南北朝時代の初めころまでは、新荘系の庶家の多くが南朝方となっているようであり、いずれも惣領の統制が及ばなくなっている。この原因は一つには庶家の分与により惣領家の所領が細分化されてしまっていることであり、もう一つは古い庶家が代替のたびに惣領家との血縁関係が希薄になるのに対して惣領を助けるべき新しい庶家の創設が行われていないことが挙げられる。現に小早川家は雅平には朝平以外に男子がおらず、朝平に家督を譲った宜平のほかには宮熊丸しかおらず、しかも幼名以外に伝わっていないところを見ると早世したようであり、二代にわたって庶家の創設ができない事情があったのだ。 |